武将名鑑【信長の野望 新生】
向井忠勝(むかいただかつ)
向井忠勝(むかいただかつ)
向井忠勝 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
71 (357 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
66 (536 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
58 (1021 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
75 (254 位) | ||||
合計 | 270 (315 位)2201人中 |
向井忠勝 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
父 | 向井正綱 | ||||
配偶者・正室 | 長谷川長綱の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1582年 | 徳川家臣。正綱の子。通称将監。父同様水軍を率い、大坂の陣で活躍。大坂湾の制海権を確保する。幕府の船手頭として水軍を管轄。造船の名手だった。 | |||||||||
死亡年 | 1641年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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盛名 | 城主のときに配下武将の忠誠上昇 | ||||||||||
海神 | 水上での攻撃上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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急襲 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 未登場 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 元服前 |
向井忠勝が登場する合戦
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木津川口砦の戦い [大坂冬の陣]
1614年11月19日
大阪府大阪市西成区
木津川口砦の戦いは大坂冬の陣において初めて行われた本格的な戦いである。
木津川と尻無川の合流点に豊臣方が築いた木津川口砦があった。
この砦は豊臣方が大坂城外の要所に築いた出城のひとつで、明石全登が兵800で守備していた。
木津川口の砦の正確な位置はわからないが、現在の道頓堀川口辺とみられる。
徳川方の偵察隊の一人である森村重は「飯を炊く際に出る煙が少ないので、兵数が少ないと思われます」と蜂須賀至鎮に報告したため、砦への攻撃が決定。
11月19日、徳川方は蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄らが3000余の兵を率いて、豊臣方の木津川口砦を攻撃する。
水陸の二手に分かれて進み、木津川から迫った蜂須賀水軍の40艘の軍船が水上から砦を火攻めにし、陸路から近づいた軍勢も一斉に攻撃をしかけ、砦はその日のうちに徳川軍方の手に落ちたのであった。
不幸にも守将の明石全登は軍議のために大坂城へ赴いて留守であり、一族の明石全延が守っていたため指揮が上手くいかず、蜂須賀軍の挟撃で大混乱に陥り、大した抵抗も出来ないまま博労淵に撤退してしまう。
伝法川口では、幕府船奉行・向井忠勝および徳川義直、池田利隆らの軍船50余艘が、往来する船舶の検問にあたっていたが、新家に敵船があるのを見つけたため、徳川義直、池田利隆らの兵船とともに、敵船を追いこの地も占領した。
豊臣方は木津川口の砦と新家の輸送基地を失ったことにより、大坂城と大坂湾を結ぶ水上補給路が遮断されたのである。
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野田・福島砦の戦い [大坂冬の陣]
1614年11月29日
大阪府大阪市福島区野田一帯
豊臣方は、天満川と木津川の合流点付近に水軍の主力を停泊させ、そこに面した野田・福島に砦を築いていた。
この砦は、元亀元年(1570)の野田・福島砦の戦いで、三好三人衆が立て籠もって織田信長を迎え撃ったところである。これらを守備する目的で、下福島の五分一に三重の柵と櫓を造り、大野治胤指揮の兵800を置いていた。
さらに上福島にも砦を設け、宮島兼与指揮の兵2,500で守備していた。幕府軍の九鬼守隆、小浜光隆、千賀信親、向井忠勝らは11月19日から11月26日にかけて、水軍を率いて何度かこの流域に侵入し、小競り合いが発生していた。
そして博労淵砦の戦いが行われていた11月29日、九鬼、向井、千賀勢は五分一を急襲した。
大雨の中多勢の襲撃に守備兵は怖じ気づいて両砦を捨てて天満方面へ敗走した。
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堺の戦い [大坂夏の陣]
1615年4月28日
大阪府堺市堺区一帯
大阪府堺市の街並み
紀伊に向かう豊臣方の先陣である塙団右衛門・岡部則綱らが和泉岸和田城を攻撃するころ、本隊を率いる大野治胤らは和泉界に入ります。
近隣の村々に放火し、28日には大野治胤らは手勢2,000を率いて徳川方が兵器の供給や修理などを行う基地だった堺を焼き討ちにしました(堺焼き討ち)。海上で警固していた徳川方の水軍である九鬼守隆・向井忠勝・小浜光隆・千賀信親らは、堺の豊臣方に攻撃を加えるも日没により戦いは自然と中止になった。
なお大坂落城後に捕らえられた治胤は、捕縛を知った堺衆に引き渡され堺で火あぶりにされている。
火あぶりにされ全身焼かれて炭になったはずの治胤が、いきなり起き上がり周囲の徳川方武士に脇差で斬りかかり一太刀浴びせた後そのまま灰となって崩れ落ちた、という逸話が残っている。
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