応仁・文明の乱
応仁・文明の乱
1467年1月
応仁の乱
目次[非表示]
上御霊社の戦い(かみごりょうしゃのたたかい)
1467年1月18日 ~ 19日
京都府京都市上京区上御霊堅町
畠山義就
山名宗全
WIN
畠山政長
LOSE
一色義直邸の戦い(いっしきよしなおていのたたかい)
1467年5月24日 ~ 28日
京都府京都市上京区室町通今出川
武田信賢
DRAW
一色義直
DRAW
応仁元年(1467年)5月24日の明け方、足利将軍家の邸宅である室町御所を押さえるため、細川方の安芸・若狭守護の武田信賢が山名方の丹後・伊勢守護の一色義直の邸宅を急襲し京都市街戦が決行される。
5月28日には将軍・足利義政の命により双方とも兵を退いた。
以後、室町御所など堀川の東に本陣をおいた細川方を東軍、堀川の西の山名宗全邸付近に本陣をおいた山名方を西軍と呼ぶ。
一条大宮の戦い(いちじょうおおみやのたたかい)
1467年6月8日
京都府京都市上京区一条通大宮
赤松政則
WIN
山名教之
LOSE
応仁元年(1467年)6月3日、細川勝元の要請によってそれまで中立の立場をとっていた将軍・足利義政が牙旗を勝元に与え、足利義視が総大将に推戴されたことで、戦乱は拡大していく。
東軍は軍事行動を開始し、6月8日、赤松政則が一条大宮において、西軍の山名一門である山名教之を破った。
嘉吉の乱(1441年)で第6代将軍・足利義教を殺害した赤松満祐(赤松政則の叔父)を討ったのが、山名教之の同族である山名宗全であったから、政則にとってはその復讐という意味もあったであろう。
さらに将軍義政が降伏を勧告すると斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもったが、東軍は義廉邸も攻撃し斯波義廉邸の戦いが起こった。
斯波義廉邸の戦い(しばよしかどていのたたかい)
1467年7月14日 ~ 8月20日
京都府京都市上京区勘解由小路町
赤松政則
武田信賢
京極持清
LOSE
斯波義廉
WIN
将軍・足利義政の東軍への寝返りにより、西軍は不利な立場に追い込まれた。
そのため、西軍は周防の大内政弘に上洛を要請する。
一方、東軍では斯波義廉が畠山政長の後任として管領となっていたが、大内勢が上洛する前に彼の邸宅を攻略しようとした。
しかし、応仁元年(1467年)7月14日に赤松政則、武田信賢、京極持清らが攻撃を行ったものの、斯波方の反撃に遭って敗北した。
その後も東軍は攻撃を続けるも、8月20日に大内勢が上洛するという報せを受けて兵を引き上げた。
東岩倉の戦い(ひがしいわくらのたたかい)
1467年9月18日 ~ 10月2日
京都府京都市東山区粟田口大日町
山名宗全
大内政弘
WIN
秋庭元明
浦上則宗
LOSE
応仁元年(1467年)7月20日、周防の大内政弘は西軍の山名宗全の招聘に応じ、摂津の兵庫に上陸し、8月23日に上洛して西軍の士気を高めた。
東軍は足利義視の出奔や後花園上皇・後土御門天皇の避難などにより危機感を募らせた。
戦況が有利になった西軍は攻勢に出て、9月1日に畠山義就の守る三宝院を放火して占拠し、6日の将軍足利義政からの停戦勧告にも耳を貸さず、13日には内裏を占拠した。
翌14日には、東軍の細川勝元の家臣・秋庭元明と赤松政則の家臣・浦上則宗が上洛した。
しかし、西軍が下京を占拠していたため、秋庭元明と浦上則宗らは正面突入を諦め、東寺を経由して東へ迂回し、16日に京都郊外の東岩倉・南禅寺の裏山に布陣したが、西軍に察知された。
18日から西軍の山名宗全・大内政弘らによる南禅寺山攻撃が始まった。
1東軍は激しく抵抗し、5日間にわたって攻防戦が繰り広げられたが、10月2日に西軍は攻撃を中止して京都へ戻り、その隙に東軍は北から迂回して入京し、御霊神社を通り東軍本陣に到着した。
この戦いで南禅寺・青蓮院が炎上した。
細川勝元と赤松政則はそれぞれの家臣と再会したことを喜んだが、西軍は三宝院と内裏の占拠などで下京を制圧、東軍は花の御所・相国寺・細川勝元邸など残る上京の拠点に追い詰められていった。
西軍はさらに勢いに乗り、翌3日から上京に攻めかかった(相国寺の戦い)。
相国寺の戦い(しょうこくじのたたかい)
1467年10月3日 ~ 4日
京都府京都市上京区相国寺門前町
大内政弘
畠山義就
一色義直
朝倉孝景
土岐成頼
六角高頼
WIN
武田信賢
赤松政則
細川勝之
安富元綱
京極持清
が畠山政長
LOSE
相国寺の法堂
応仁・文明の乱は、このころになると洛中における陣取り合戦の様相を呈するようになっていたが、大内政弘の加勢によって勢いをつけた西軍は、9月の東岩倉の戦いで東軍を破り室町御所や相国寺を中心とする京都北東に追い込んだ。
応仁元年(1467年)10月3日、優勢である西軍はさらなる攻勢に出て、花の御所・相国寺・内裏など東軍の陣地に進軍を開始。
西軍の畠山義就・大内政弘・一色義直らの軍勢は朝倉孝景らと合流し、武田信賢らが守備する相国寺及びその周辺の東軍に攻めかかった。
相国寺には細川勝元の猶子・細川勝之と勝元の家臣である安富元綱・武田信賢らが守り、南方の烏丸殿・内裏・三条殿には京極持清らが構えていた。
相国寺の総門を守る東軍・赤松政則は、多くの被官を失いながらも大内政弘・土岐成頼ら西軍の大軍を防いだが、相国寺が焼失し(西軍に内通した相国寺の僧が放火したとも)、烏丸殿・内裏・三条殿の兵も逃亡して陣地は西軍に奪われた。
花の御所は相国寺のすぐ西側にあったためこちらも西軍に攻撃されたが、半分焼け落ちながらも陥落を免れた。
東軍は安富元綱が討死するなど大敗を喫し、『応仁記』によると、西軍は討ち取った東軍側の首級を車8両に積み、西軍の本陣となっていた西陣に引きあげたという。
翌10月4日、東軍は一旦退却したが畠山政長らの援軍を得て反撃に転じ、相国寺の焼け跡に陣を張っていた西軍の畠山義就・六角高頼・一色義直らを急襲し、奪還した。
しかし、再度朝倉孝景が率いる西軍の軍勢が相国寺の占拠に成功したため一旦休戦となり、最終的には東軍が確保している。。
相国寺の戦いは、応仁・文明の乱における最大の激戦であった。
西軍は相国寺の奪取により東軍を追い詰めたが、双方に多大な死傷者を出す消耗戦となった。
消耗が激しかったこの戦い以降、一進一退の膠着状態が続き、両軍の間での衝突が散発的になり、やがて戦争は京都から地方へと波及、相手陣営の有力武将の調略へと戦略が切り替わっていった。
北大路烏丸の戦い(きたおおじからすまのたたかい)
1468年3月17日
京都府京都市北区北大路烏丸
武田信賢
LOSE
大内政弘
WIN
相国寺の戦いに敗れた東軍は、応仁2年(1468年)3月17日、劣勢を挽回すべく安芸・若狭守護の武田信賢が中心となり、北大路烏丸におかれた西軍・大内政弘の陣を急襲した。
大内政弘の陣は兵力1万であったと伝えられる。
このとき信賢の配下には、毛利豊元・小早川熙平・吉川経基といった安芸の国衆が従っている。
西軍が防戦に努めたため、東西両軍の双方に死傷者がでた。
結局、東軍は大内政弘の陣を攻略することはできず、戦局を変えるまでには至らなかったのである。
この3年後、東軍側の毛利氏への措置に不満を抱いた毛利豊元は、文明3年(1471年)に帰国すると、西軍の有力大名の大内政弘に味方して所領を取り返している。
これ以後、毛利氏は大内氏傘下の国人領主の一つとなる。
伏見の戦い(ふしみのたたかい)
1468年3月21日
京都府京都市伏見区深草藪之内町
山名宗全
大内政弘
WIN
骨川道賢
LOSE
伏見稲荷大社 千本鳥居
起死回生を図ろうとする東軍の細川勝元は、応仁2年(1468年)3月15日、侍所所司代の多賀高忠の従者として盗賊を追捕していた骨皮左衛門尉道賢の一党を足軽として起用した。
伏見稲荷社に拠った道賢らは、伏見・木幡・藤森・三楢・深草・淀・竹田・鳥羽等を眼下に見下ろすことが出来る要害の地ともいうべき稲荷山に陣を設け、正攻法で戦わず伏見から洛中に運ばれる西軍の山名持豊隊の兵糧を奪うなどしていたが、3月21日、山名宗全・大内政弘・斯波義廉・朝倉孝景・畠山義就ら西軍の大軍に伏見稲荷社を攻撃される。
西軍による猛攻の前に足軽を中心とした東軍は敗れ、道賢は女装して包囲網を脱出し稲荷山の東方山科へ逃れようとしたが露顕し、朝倉孝景の兵に討ち取られ、首は東寺の門前に晒された。
この合戦の際に、伏見稲荷社の堂塔・社人家等は、午前7時頃から昼すぎまでの間にことごとく燃えつきてしまったという。
しかしこの年12月には、早くも仮殿を設け、その翌年には余燼くすぶる最中に稲荷祭が執り行われている。
船岡山の戦い(ふなおかやまのたたかい)
1468年9月7日
京都府京都市北区柴野北舟岡町
細川勝元
WIN
一色義直
山名教之
LOSE
船岡山は京の西北にあり、姿が舟の形をしている為「船岡山」と呼ばれていた。
平安時代には祭祀の場でもあり、平安貴族の遊宴の地でもあったが、中世になり土地柄戦の要衝と変わっていった。
応仁年間では、船岡山は西軍の陣地となっており、「西陣」と称されていた。
西軍を率いる山名宗全の軍事拠点の一つとなり、備前国守護の山名教之や丹後国守護の一色義直らが船岡山に船岡山城を建築して立て籠もっていた。
応仁2年(1468年)7月、西軍の斯波義廉が管領を罷免され、代わって東軍の細川勝元が管領に任ぜられた。
政治的に優位に立った東軍の勝元は、西軍の本陣を背後から衝くべく嵯峨仁和寺を攻撃する。
9月7日、西軍の主力が嵯峨仁和寺の防衛に向かった間隙をぬって、東軍は船岡山を三方から攻め攻略し落城させたが、西軍の本陣に近い船岡山を確保し続けるのは困難として、陣を焼き払ったうえで撤収している。
芝薬師堂の戦い(しばやくしどうのたたかい)
1469年3月16日
京都府京都市左京区浄土寺真如町
細川勝元
安富又次郎
DRAW
山名宗全
DRAW
応仁2年(1468年)11月、将軍・足利義政と対立した弟の義視が、山名宗全らに迎えられて斯波義藤邸に入ると、西軍の将軍とみなされるようになった。
しかも、応仁3年(1469年)正月8日と3月14日には、義視が山名宗全邸に「御成」をしている。
※御成とは宮家、摂家、将軍など貴人が外出することや訪ねて来ることをいう尊敬語
西軍の政治的な動きを牽制する意味もあったのだろうか、3月16日の夜、東軍細川方の安富又次郎と京都郊外西岡の侍は山名宗全邸に近い芝薬師堂(大興寺)の西軍の陣を攻撃して火を放ったが、本陣を攻略するには至らなかった。
芝薬師堂はこの戦いで焼失し、乱の後に潭月寂澄が再興したが元禄時代に再度焼失し、現在の左京区浄土寺真如町へ移転された。
淀城の戦い(よどじょうのたたかい)
1473年10月23日
京都府京都市伏見区納所北城堀
畠山義就
大内政弘
DRAW
細川政元
DRAW
文明5年(1473年)になると、3月に山名宗全が、5月に細川勝元が相次いで死去し、宗全の跡を子の政豊、勝元の跡を子の政元がそれぞれ継いでいる。
10月23日、東西両軍の和睦が進められる中、講和に反対し山城平定を進める畠山義就は、大内政弘の援軍とともに政元方の山城淀城を攻めたが攻略することはできなかった。
その後も散発的な小競り合いが続き、翌文明6年(1474年)4月にようやく西軍・山名政豊と東軍・細川政元との和睦が成立している。
北野の戦い(きたののたたかい)
1474年7月26日
京都府京都市上京区北野
畠山義就
大内政弘
土岐成頼
LOSE
山名政豊
WIN
西軍・山名政豊と東軍・細川政元との和睦は成立したものの、これに承伏しない西軍の畠山義就・大内政弘・土岐成頼らは、文明6年(1474年)7月26日、京都北野で山名政豊と戦い敗れた。
その後も小競り合いは続いたが、 文明9年(1477年)9月に畠山義就が河内へ下向すると、西軍の主力であった大内政弘も周防に帰国する。
これにより西軍は解体され、応仁・文明の乱は終息したが、乱の原因となった畠山氏の家督争いは義就(父親は畠山持国)と政長(父親は畠山持富)の従兄弟の間でその後も続いた。