山内上杉氏と扇谷上杉氏
山内上杉氏と扇谷上杉氏
1488年2月
河越城
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実蒔原の戦い(さねまきはらのたたかい)
1488年2月5日
神奈川県伊勢原市西富岡
上杉顕定
上杉憲房
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上杉定正
WIN
須賀谷原の戦い(すがやはらのたたかい)
1488年6月18日
埼玉県比企郡嵐山町菅谷付近
上杉顕定
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上杉定正
長尾景春
WIN
実蒔原の戦いに敗れた山内上杉顕定と養子の憲房は、2000余の軍勢を率いて武蔵鉢形城を出陣し、扇谷上杉定正の拠る武蔵河越城を攻略しようとした。
顕定に反逆して逃亡していた長尾景春が古河公方足利政氏の援軍を引き連れて定正軍に加勢したため、定正は養子の朝良と援軍を率いて河越城を打って出て勝呂に布陣し、長享2年(1488年)6月18日、両軍は都幾川の流域に広がる須賀谷原(現在の埼玉県嵐山町)で衝突する。
緒戦は定正勢が顕定勢に押されていたが、最終的には定正が勝利をおさめている。
戦死者が700人、馬も数百匹が倒れた激戦だったという。
高見原の戦い(たかみはらのたたかい)
1488年11月15日
埼玉県比企郡小川町高見付近
上杉定正
足利政氏
長尾景春
WIN
上杉顕定
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立河原の戦い(たちかわはらのたたかい)
1504年9月27日
東京都立川市紫崎町付近
実田城の戦い(さねたじょうのたたかい)
1504年12月26日
神奈川県平塚市真田
上杉顕定
長尾能景
WIN
上田正忠
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立河原の戦いで敗れた山内上杉顕定は、長尾能景の説得に応じて、亡父・房定の後を継いで越後守護となった弟・上杉房能に援軍を要請した。
その結果、越後軍が主力である顕定・能景連合軍は永正元年(1504年)11月に突如河越城を攻撃した。
扇谷上杉朝良は顕定を討つ準備を進めていたが、12月1日に上戸での戦闘で長尾弥五郎(長尾景致)を討ち取り、進撃を阻止するのがやっとだった。
その後、朝良は武蔵椚田城と相模実田城を攻め落とし、相模守護代である上田正忠を捕らえた。
これにより、朝良の本拠である河越城は、今川氏親の駿河と伊勢宗瑞の伊豆によって分断され、孤立することになった。
河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)
1505年1月 ~ 3月
埼玉県川越市郭町
山内上杉顕定は越後守護の上杉房能の援軍を得て、扇谷上杉朝良の椚田城と実田城を攻略し、永正2年(1505年)正月には朝良の居城である武蔵河越城を包囲した。
朝良は領国の相模を失い、駿河の今川氏親・伊豆の伊勢宗瑞からの援軍も期待できない状況下で、3月に顕定に降伏開城した。
朝良の実兄・朝寧の子で甥にあたる朝興を養子に迎えて家督を譲り隠退するという条件で和睦が成立し、朝良は武蔵江戸城に隠退したが、扇谷上杉家の重臣たちはこの処置に反抗の姿勢を見せたため、顕定もこれ以上の強要は出来ず、以後も朝良が扇谷上杉家当主の職務を続けている。
これによって長享の乱は終結したのである。