武田信虎の甲斐平定
武田信虎の甲斐平定
1508年10月
北条氏綱と武田信虎
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勝山城の戦い(かつやまじょうのたたかい)
1508年10月4日
山梨県甲府市上曾根町
上野城の戦い(うえのじょうのたたかい)
1515年10月17日
山梨県南アルプス市上野
万力の戦い(まんりきのたたかい)
1516年9月28日
山梨県山梨市万力
都塚の戦い(みやこづかのたたかい)
1520年6月8日
山梨県笛吹市一宮町本都塚
今諏訪の戦い(いますわのたたかい)
1520年6月10日
山梨県南アルプス市上今諏訪
大島の戦い(おおしまのたたかい)
1521年9月6日
山梨県南巨摩郡身延町大島
飯田河原の戦い(いいだがわらのたたかい)
1521年10月16日
山梨県甲府市飯田
大島の戦いで武田勢を破った今川氏親の重臣・福島正成が率いる15,000の軍勢は、釜無川に沿って北上すると、躑躅ヶ崎館の西方約7キロに位置する竜地台に布陣した。
大永元年(1521年)10月16日、対する武田信虎は甲府の西側を流れる荒川を防衛線と定め飯田河原で迎え撃った。
武田勢は兵2,000と寡兵ながらも用兵と地の利をもって迎撃し、100余人を討ち取った。
今川勢は躑躅ヶ崎館への侵攻を一時断念して退却し、11月10日、信虎の叔父の油川信恵の居城だった勝山城に入った。
なお、11月3日には要害山城で信虎の長男・太郎(後の武田信玄)が生まれている。
上条河原の戦い(じょうじょうがわらのたたかい)
1521年11月23日
山梨県甲斐市島上条
今川勢は大永元年(1521年)11月10日に八代郡勝山城に入って陣容を整え、再度の躑躅ヶ崎館への侵攻を狙っていたが、一方の武田方も躑躅ヶ崎周辺の補強を進め、食糧や武器の備蓄などを行って今川勢の来攻に備えていた。
武田方の兵力としては2,000ほどであり、兵数に劣る武田方は多数の幟や旗を仕立て、将兵に似せた藁人形を数多く用意して偽装を行ったという。
11月下旬、勝山城で陣容を整えた今川勢が再び甲府侵攻のため荒川沿いを北上、11月23日、飯田河原の上流の上条河原に布陣を完了した。
武田信虎も躑躅ヶ崎館を出陣し、夕刻から上条河原で武田勢と今川勢が再び激突する。
雪が降る中での戦いは夜を通して続き、武田氏の重臣・荻原昌勝が軍略を駆使して圧倒的多数の今川勢を翻弄し、原友胤が大将の福島正成の首級を挙げ、正成以下600余の将兵を討ち取った武田勢が勝利した。
総崩れとなった今川勢は富田城に逃れて越年し、翌大永2年(1522年)1月14日に降伏して駿河国へ退却したという。
こののち大永6年(1526年)に今川氏親が没して氏輝が跡を継ぐと、翌大永7年(1527年)、武田信虎と氏輝との間に和睦が成立する。
猿橋の戦い(さるはしのたたかい)
1524年2月11日
山梨県大月市猿橋町
八坪坂の戦い(やつぼさかのたたかい)
1530年4月23日
山梨県上野原市大野
塩川河原の戦い(しおかわがわらのたたかい)
1531年4月12日
山梨県韮崎市中田町
浦城の戦い(うらじょうのたたかい)
1532年9月
山梨県北社市須玉町
万沢口の戦い(まんざわぐちのたたかい)
1535年8月19日
山梨県南巨摩郡南部町万沢
山中の戦い(やまなかのたたかい)
1535年8月22日
山梨県南都留郡山中湖村
この合戦に登場する武将
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武田信虎 (たけだのぶとら)
甲斐守護。甲斐を平定するが、その苛烈な政策方針に反発した嫡男・信玄によって駿河に追放された。以後は各地を放浪し、甲斐に再び戻ることはなかった。
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北条氏綱 (ほうじょううじつな)
後北条家2代当主。「北条」の姓を初めて使用した。扇谷上杉家との戦いや、小弓公方・足利家との第一次国府台合戦に勝つなど、着実に関東に地盤を築いた。
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小山田信有 (おやまだのぶあり)
武田家臣。越中守信有の子。出羽守を称した。志賀城攻略、上田原合戦などで活躍。砥石城攻略戦で重傷を負い、死去した。葬儀には1万人が参列したという。
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諏訪頼満 (すわよりみつ)
信濃の戦国大名。諏訪大社の大祝を務める。金刺家を滅ぼして諏訪地方を平定、隣国の武田信虎と戦うなど、諏訪家の勢力回復に尽力した、諏訪家中興の英主。
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今川氏輝 (いまがわうじてる)
今川家8代当主。幼くして当主となり、馬廻衆の創設や、検地の実行、流通の活性化などの政策を実施する。しかし、名将の評判が立ち始めた途端、急死した。