古河公方と小弓公方
古河公方と小弓公方
1514年8月
里見義堯と北条氏綱
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宇都宮の戦い(うつのみやのたたかい)
1514年8月16日
栃木県宇都宮市一帯
小弓城の戦い(おゆみじょうのたたかい)
1517年10月15日
千葉県千葉市中央区生実町
高縄原の戦い(たかなわはらのたたかい)
1524年1月13日
東京都港区高輪
岩付城の戦い(いわつきじょうのたたかい)
1525年2月6日
埼玉県さいたま市岩槻区太田
鎌倉の戦い(かまくらのたたかい)
1526年11月12日
神奈川県鎌倉市雪ノ下一帯
小沢原の戦い(おざわはらのたたかい)
1530年6月12日
東京都稲城市矢野口一帯
犬懸の戦い(いぬかけのたたかい)
1534年4月6日
千葉県南房総市犬掛
天文2年(1533年)7月、里見氏第4代当主の里見義豊は、叔父の里見実堯と側近の正木通綱が上総進出を狙う小田原城の北条氏綱と接近したため安房稲村城で謀殺した。
これにより謀殺された実堯の子の義堯(義豊の従兄弟)や正木通綱の息子の正木時茂・時忠らは上総真里谷城の武田信隆を頼って落ちのびていた。
信隆の属城である上総造海城に拠った義堯は、相模の北条氏綱の支援を得て義豊に抵抗を続ける。
天文3年(1534年)4月6日、信隆と対立するその父の武田信保と結んだ義豊と、信隆・氏綱の加勢を得た義堯とが安房の犬懸で衝突した。
この戦いで義豊が討たれ、義堯が里見氏の家督を継いだ。
椎津城の戦い(しいづじょうのたたかい)
1534年11月20日
千葉県市原市椎津
天文3年(1534年)7月、小弓公方足利義明を擁立して房総に勢威を誇った上総真里谷城の武田恕鑑(信保)が死去したことにより、その嫡子の信応と庶長子の信隆とで家督争いが起こった。
信応が幼少のため叔父の武田信助が小弓公方足利義明を味方にすると、信隆は相模の北条氏綱に支援を求めて対抗する。
足利義明は武田信隆を排するため、兵をあげ上総に出陣。
このため、武田信隆は子の武田信政(真里谷信政)とともに真里谷城を出て椎津城に拠点を移して立て籠もった。
11月20日、足利義明・武田信応らは、武田信隆の椎津城を包囲して攻防戦が繰り広げられた。
この時、椎津城兵100余人が討ち取られという。
峰上城の戦い(みねがみじょうのたたかい)
1537年5月16日
千葉県富津市上後
天文6年(1537年)5月、真里谷武田信隆は、異母弟の信応を排斥すべく、上総の峰上城と造海城に拠って挙兵した。
信応を支援する小弓公方足利義明が峰上城を攻撃すると、信隆は造海城に籠城した。
それまで信隆に通じていた里見義堯は関東に勢力を拡大していた北条氏綱に単独で挑むことは難しいと考え小弓公方の足利義明と同盟を結び信応方に寝返り、信隆の造海城を攻撃する。
和歌を百首詠むことを条件に開城した信隆は、相模の北条氏綱を頼って落ちのび武蔵金沢で庇護され隠居生活を送った。
これにより小弓公方を中心とする武田・里見氏らと、北条氏との対立が決定的となる。
三ツ木原の戦い(みつきはらのたたかい)
1537年7月15日
埼玉県狭山市新狭山
国府台の戦い(こうのだいのたたかい)
1538年10月5日 ~ 7日
千葉県市川市国府台
この合戦に登場する武将
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岩城由隆 (いわきよしたか)
陸奥の豪族。常隆の子。古河公方の足利政氏・高基親子の争いでは、佐竹家とともに政氏方に属し、高基方に属した宇都宮家や下総結城家と戦いを繰り広げた。
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足利義明 (あしかがよしあき)
小弓御所。古河公方・政氏の子。父らと対立し、流浪の末、真里谷武田家の後援で小弓城に入った。のちに里見家と結んで北条家と国府台で戦うが、敗死した。
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北条氏綱 (ほうじょううじつな)
後北条家2代当主。「北条」の姓を初めて使用した。扇谷上杉家との戦いや、小弓公方・足利家との第一次国府台合戦に勝つなど、着実に関東に地盤を築いた。
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上杉朝興 (うえすぎともおき)
扇谷上杉家当主。家臣・太田資高の北条家内通により、居城・江戸城を奪われ河越城に逃れた。江戸城奪還を目指し北条家と戦うが、勢力回復はならなかった。
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北条氏康 (ほうじょううじやす)
後北条家3代当主。氏綱の嫡男。武田信玄・上杉謙信ら強豪としのぎを削り、関東に一大王国を築いた。知勇兼備の名将で、戦国期随一の民政家としても著名。
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里見義堯 (さとみよしたか)
房総の戦国大名。父・実堯を殺した従兄弟・義豊を討ち、当主となる。国府台合戦では北条氏康に敗れたが、その後も房総に勢力を広げ、北条家と戦い続けた。
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正木時茂 (まさきときしげ)
里見家臣。大多喜城主。槍に長じ「槍大膳」の異名をとった。2度の国府台合戦をはじめとする里見家の合戦にはほとんど参陣し、勇名を近隣諸国に轟かせた。
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正木時忠 (まさきときただ)
里見家臣。勝浦城主。兄・時茂とともに多くの合戦で戦功を立てる。第二次国府台合戦ののち、正木家の存続を優先して北条家に寝返ったが、のちに帰参した。
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上杉朝定 (うえすぎともさだ)
扇谷上杉家当主。朝興の子。北条家に居城・河越城を奪われる。周辺諸国と和睦して大軍で河越城を囲むが、北条軍の奇襲に遭い戦死、扇谷上杉家は断絶した。