今日は何の日?

  • ● 1496年 播磨、備前、美作三国の守護・赤松政則が死去。享年42歳
  • ● 1585年 羽柴(豊臣)秀吉が紀州太田城を水攻めで落とす
  • ● 1613年 江戸幕府奉行衆・大久保長安が死去。享年69歳
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この人誰?

木幡高清

島津貴久・義久の三州統一

1539年3月

島津貴久と伊東義祐

目次[非表示]

紫原の戦い(むらさきばるのたたかい)

1539年3月13日

鹿児島県鹿児島市紫原

薩摩島津宗家の島津勝久は、一族や国衆の自立を制御できず、大永6年(1526年)、庶家の島津貴久を養子に迎え家督を譲った。

しかし、これに不満を抱いた庶家の島津実久が宗家に対して反旗を翻す。

このため貴久実久との間に抗争が勃発したが、天文6年(1537年)、最終的に貴久忠良(日新公)が薩摩紫原で実久勢を撃破する。

実久貴久に降伏し、出水に隠棲した。

こうして薩摩を統一した貴久は、天文19年(1550年)に清水城から鹿児島の内城に居城を移した。

加治木城の戦い(かじきじょうのたたかい)

1549年5月29日 ~ 11月24日

鹿児島県姶良郡加治木町反土城

薩摩を平定した島津貴久は、やがて大隅への進出を図る。

もともとは守護の島津氏に従っていた肝付氏が、戦国時代には大隈半島北部の領国化に成功し、自立を始めていたためこれを標的とした。

天文18年(1549年)5月29日、島津貴久伊集院忠朗忠倉父子、樺山善久北郷忠相らに種子島の領主・種子島時尭から贈られた鉄砲を使って、肝付兼演が守る大隅加治木城を攻撃させた。

この戦いは鉄砲伝来から6年後のことで、日本で初めて鉄砲を実戦に用いたことで知られている。

蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏が肝付兼演の助勢に駆けつけ戦いは6か月近くにおよぶ籠城戦となった。

11月、伊集院忠倉の暴風に乗じた奇襲策で肝付兼演を破り、兼演は北郷氏を通じて貴久に降伏した。

翌年、兼演貴久から加治木の領有は安堵され、城の再入城が許されている。

岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)

1554年9月12日 ~ 10月2日

鹿児島県姶良郡姶良町脇元

天文23年(1554年)9月、大隈蒲生城主の蒲生範清が、岩剣城に拠る祁答院良重らと結び、島津方となった肝付兼演の加治木城を攻めます。
これが日本初の鉄砲同士の戦いとなりました。
島津貴久は救援のため子の義久義弘らと共に岩剣城を包囲すると、加治木城の包囲を解いて岩剣城の後詰に出てきた蒲生方を撃破し、良重の子・重経、蒲生一族の西俣盛家らを討ち取ります。
これをみた良重が夜陰に乗じて城を捨てたため、貴久は岩剣城に義弘を入れて守られることにしました。

岩剣城が落ちたが、蒲生範清の戦意は衰えなかった。

蒲生城の戦い(がもうじょうのたたかい)

1556年12月 ~ 1557年4月20日

鹿児島県姶良郡蒲生町久末

菱刈重豊

LOSE

島津貴久は攻略したばかりの岩剣城を拠点に、大隈平定に乗り出します。

天文24年(1555年)、島津貴久は蒲生城の支城を各個撃破していきます。
蒲生氏一族の北村氏が守る北村城を落とし、つぎに祁答院良重の拠る帖佐平山城を攻撃します。
島津軍の猛攻撃にさすがの祁答院良重も平安城を逃れて本領の祁答院に逃れます

その後、祁答院良重は帖佐奪回を策して蒲生範清の応援を得て平安城を攻撃したが回復はならなかった。

祁答院氏の居城を収めた島津貴久は、蒲生範清に降伏を進めたが範清はこれをはねつけ、島津軍の蒲生攻略が始まった。

翌1556年12月についに蒲生範清の居城蒲生城を包囲する。

このとき、蒲生範清と結ぶ菱刈重豊が救援のため北村に陣を布いて島津勢と対峙するが、4月15日に島津勢が菱刈勢の陣を急襲し、重豊を敗死させます。

敗北を悟った蒲生範清は城門の鍵を島津氏に渡すと城に火を放って祁答院の松尾城に退去し、西大隈が貴久の手に帰しています。

横川城の戦い(よこがわじょうのたたかい)

1562年6月3日

鹿児島県霧島市横川町

北原兼正

LOSE

永禄5年(1562年)日向の北原氏に内乱があり、一族の多くが島津氏に属してしまう。
伊東派の北原兼正と子の新助は日向国飫肥の伊東氏に内応して横川城に籠った。
貴久は自らの三男である島津歳久を大将に任じて島津義弘らが横川城を攻め、北原父子は城内で自刃して果て、城も落城した。

大口城の戦い(おおくちじょうのたたかい)

1569年8月26日

鹿児島県伊佐市大口里

菱刈隆秋

LOSE

木崎原の戦い(きさきばるのたたかい)

1572年5月4日

宮崎県えびの市今西

伊東祐信

LOSE

小浜城の戦い(おばまじょうのたたかい)

1572年9月27日

鹿児島県霧島市隼人町小浜

伊地知重矩

LOSE

元亀2年(1571年)6月に島津家15代当主の島津貴久が卒去すると、跡を嫡男の義久が継いだ。

これに対し大隅高山城主の肝付兼亮は、禰寝重萇・伊地知重興らと結び、跡を継いだ義久に反旗を翻した。

そのため島津義久は弟の歳久に命じて、伊地知重興の属城である大隅小浜城を攻めさせた。

小浜城は伊地知重興の一族である伊地知重矩が籠城し抵抗した。

容易に落とされなかったが、元亀3年(1572年)9月27日に攻略される。

こののちも重興は抵抗を続けたが、天正2年(1574年)に肝付兼亮の家臣である安楽兼寛が入船城の戦いに敗れると、島津氏に降伏した。

入船城の戦い(いりぶねじょうのたたかい)

1573年12月 ~ 1574年1月19日

鹿児島県垂水市牛根麓

大隈高山城主の肝付兼亮は、禰寝重長伊地知重興ら大隈の国衆らと結びつき、島津氏に対抗していた。

しかし元亀4年(1573年)2月、禰寝重良伊地知重興が相次いで離反して島津氏に降ったため、肝付氏のこれまで互角以上に渡り合った島津氏との立場が一変する。

天正元年(1573年)12月に島津義久は叔父の以久らに肝付領への総攻撃を命じ、肝付方の安楽兼寛が守る大隈入船(牛根)城を攻めた。

入船城は1年3ヶ月に渡る籠城を続けたが力尽き開城した。
その後肝付兼亮も島津氏に降った。

高原城の戦い(たかはるじょうのたたかい)

1576年8月19日 ~ 23日

宮崎県西諸県郡高原町

伊東勘解由

LOSE

伊地知氏や肝付氏ら大隅の国衆を完全に帰服させた島津義久は、次は日向を手中に収めるべく、天正4年(1576年)8月19日、伊東義祐の属城である高原城を3万の軍勢で攻撃する。

木崎原の戦いで島津氏に大敗した伊東氏は、この高原城に伊東勘解由をおいて島津氏の侵攻に備えていたが、島津軍は城下の防塁を払い除け火を放ったため、城兵は籠城せざるを得なかった。

そのとき高原城には370余名ほどの兵しかいなかったようだ。

島津軍は二の門まで破るも三の門で激しい抵抗に遭い多数の死傷者を出したため、大軍で包囲したうえで水の手を断たせた。

翌20日は両軍の弓矢による攻撃が行われ、双方に100名近くの死傷者が出たという。

伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出すも、救援を遂げるには至らなかった。

21日、水に窮した城兵は矢文にて和議を申し入れ、22日に交渉が行われ、23日に降伏開城した。

その後、長倉祐政ら城兵170余名は野尻方面へ退却した。

義久は奪取した高原城に家臣の上原尚近を入れ、高原地頭に任命した。

都於郡城の戦い(とのこおりじょうのたたかい)

1577年12月10日 ~ 11日

宮崎県西都市都於郡町

福永祐友

上原尚近

野村刑部少輔文綱

米良主税助

落合兼朝

WIN

島津義久は、天正5年(1577年)12月、日間飯野城に拠る弟の島津義弘に命じて、伊東領への本格的な侵攻を命じた。

まず、伊東方の野尻城主・福永祐友が、島津方である高原城主・上原尚近の説得を受け入れ島津方に寝返った。

伊東氏と姻戚関係にあった福永氏が寝返ったことにより、内山城主の野村刑部少輔文綱や紙屋城主の米良主税助らも次々と島津方へ寝返った。

12月7日、島津義弘が野尻城を落とすと、戸崎城・紙屋城・富田城など、日向の城は次々と開城し、島津氏は佐土原の西部を完全に手中に収めた。

12月8日、伊東義祐は領内諸将を動員し、紙屋城奪還のため出陣するも、背後の伊東家譜代家臣の謀反の動きを察知し即座に反転して佐土原に帰城。

12月9日、佐土原城で事態打開の評定が開かれた。

南の島津方は飫肥を越え、佐土原へ攻め寄せるのは必至であり、後詰の当てがない状況だったため、籠城して島津軍を迎撃する声はなかった。

抵抗を諦めた伊東義祐は、12月11日、日向を捨て次男・義益正室の阿喜多の叔父である大友宗麟を頼って豊後に逃れる決断を下した。

豊後の進路上に、新納院財部城主・落合兼朝も島津氏に迎合して挙兵した報せが入った。

落合氏は伊東氏が日向に下向する以前からの重臣で譜代の筆頭格であったが、義祐の寵臣・伊東帰雲斎の専横が元で子息の落合丹後守を殺されており、それを深く恨んでいた。

落合兼朝の裏切りにより、伊東義祐は己の今までの愚行に気付き、切腹しようとするも家臣らに止められる。

一行は財部に入るのを諦め、西に迂回し米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通ることにした。

女子供を連れての逃避行はかなり辛く苦しく、また険峻な山を猛吹雪の中進まねばならず、当初120~150名程度だった一行は、途中崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決したものなどが後を絶たず、また島津からの追撃や山賊にも悩まされ、豊後国に着いた時はわずか80名足らずになっていたという(豊後落ち)。

その中には後に天正遣欧少年使節の一人となる伊東マンショの幼い姿もあった。

都於郡城には島津義久が入城し、これにより三州は島津氏によって統一された。

その後の都於郡城は、豊臣秀吉の九州征伐である高城の戦いにおける前線基地となっている。

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬