島津貴久・義久の三州統一
島津貴久・義久の三州統一
1539年3月
島津貴久と伊東義祐
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紫原の戦い(むらさきばるのたたかい)
1539年3月13日
鹿児島県鹿児島市紫原
薩摩島津宗家の島津勝久は、一族や国衆の自立を制御できず、大永6年(1526年)、庶家の島津貴久を養子に迎え家督を譲った。
しかし、これに不満を抱いた庶家の島津実久が宗家に対して反旗を翻す。
このため貴久と実久との間に抗争が勃発したが、天文6年(1537年)、最終的に貴久・忠良(日新公)が薩摩紫原で実久勢を撃破する。
こうして薩摩を統一した貴久は、天文19年(1550年)に清水城から鹿児島の内城に居城を移した。
加治木城の戦い(かじきじょうのたたかい)
1549年5月29日 ~ 11月24日
鹿児島県姶良郡加治木町反土城
薩摩を平定した島津貴久は、やがて大隅への進出を図る。
もともとは守護の島津氏に従っていた肝付氏が、戦国時代には大隈半島北部の領国化に成功し、自立を始めていたためこれを標的とした。
天文18年(1549年)5月29日、島津貴久は伊集院忠朗・忠倉父子、樺山善久・北郷忠相らに種子島の領主・種子島時尭から贈られた鉄砲を使って、肝付兼演が守る大隅加治木城を攻撃させた。
この戦いは鉄砲伝来から6年後のことで、日本で初めて鉄砲を実戦に用いたことで知られている。
蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏が肝付兼演の助勢に駆けつけ戦いは6か月近くにおよぶ籠城戦となった。
11月、伊集院忠倉の暴風に乗じた奇襲策で肝付兼演を破り、兼演は北郷氏を通じて貴久に降伏した。
翌年、兼演は貴久から加治木の領有は安堵され、城の再入城が許されている。
岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)
1554年9月12日 ~ 10月2日
鹿児島県姶良郡姶良町脇元
天文23年(1554年)9月、大隈蒲生城主の蒲生範清が、岩剣城に拠る祁答院良重らと結び、島津方となった肝付兼演の加治木城を攻めます。
これが日本初の鉄砲同士の戦いとなりました。
島津貴久は救援のため子の義久・義弘らと共に岩剣城を包囲すると、加治木城の包囲を解いて岩剣城の後詰に出てきた蒲生方を撃破し、良重の子・重経、蒲生一族の西俣盛家らを討ち取ります。
これをみた良重が夜陰に乗じて城を捨てたため、貴久は岩剣城に義弘を入れて守られることにしました。
岩剣城が落ちたが、蒲生範清の戦意は衰えなかった。
蒲生城の戦い(がもうじょうのたたかい)
1556年12月 ~ 1557年4月20日
鹿児島県姶良郡蒲生町久末
島津貴久は攻略したばかりの岩剣城を拠点に、大隈平定に乗り出します。
天文24年(1555年)、島津貴久は蒲生城の支城を各個撃破していきます。
蒲生氏一族の北村氏が守る北村城を落とし、つぎに祁答院良重の拠る帖佐平山城を攻撃します。
島津軍の猛攻撃にさすがの祁答院良重も平安城を逃れて本領の祁答院に逃れます
その後、祁答院良重は帖佐奪回を策して蒲生範清の応援を得て平安城を攻撃したが回復はならなかった。
祁答院氏の居城を収めた島津貴久は、蒲生範清に降伏を進めたが範清はこれをはねつけ、島津軍の蒲生攻略が始まった。
翌1556年12月についに蒲生範清の居城蒲生城を包囲する。
このとき、蒲生範清と結ぶ菱刈重豊が救援のため北村に陣を布いて島津勢と対峙するが、4月15日に島津勢が菱刈勢の陣を急襲し、重豊を敗死させます。
敗北を悟った蒲生範清は城門の鍵を島津氏に渡すと城に火を放って祁答院の松尾城に退去し、西大隈が貴久の手に帰しています。
横川城の戦い(よこがわじょうのたたかい)
1562年6月3日
鹿児島県霧島市横川町
永禄5年(1562年)日向の北原氏に内乱があり、一族の多くが島津氏に属してしまう。
伊東派の北原兼正と子の新助は日向国飫肥の伊東氏に内応して横川城に籠った。
貴久は自らの三男である島津歳久を大将に任じて島津義弘らが横川城を攻め、北原父子は城内で自刃して果て、城も落城した。
大口城の戦い(おおくちじょうのたたかい)
1569年8月26日
鹿児島県伊佐市大口里
木崎原の戦い(きさきばるのたたかい)
1572年5月4日
宮崎県えびの市今西
小浜城の戦い(おばまじょうのたたかい)
1572年9月27日
鹿児島県霧島市隼人町小浜
元亀2年(1571年)6月に島津家15代当主の島津貴久が卒去すると、跡を嫡男の義久が継いだ。
これに対し大隅高山城主の肝付兼亮は、禰寝重萇・伊地知重興らと結び、跡を継いだ義久に反旗を翻した。
そのため島津義久は弟の歳久に命じて、伊地知重興の属城である大隅小浜城を攻めさせた。
小浜城は伊地知重興の一族である伊地知重矩が籠城し抵抗した。
容易に落とされなかったが、元亀3年(1572年)9月27日に攻略される。
こののちも重興は抵抗を続けたが、天正2年(1574年)に肝付兼亮の家臣である安楽兼寛が入船城の戦いに敗れると、島津氏に降伏した。
入船城の戦い(いりぶねじょうのたたかい)
1573年12月 ~ 1574年1月19日
鹿児島県垂水市牛根麓
大隈高山城主の肝付兼亮は、禰寝重長や伊地知重興ら大隈の国衆らと結びつき、島津氏に対抗していた。
しかし元亀4年(1573年)2月、禰寝重良・伊地知重興が相次いで離反して島津氏に降ったため、肝付氏のこれまで互角以上に渡り合った島津氏との立場が一変する。
天正元年(1573年)12月に島津義久は叔父の以久らに肝付領への総攻撃を命じ、肝付方の安楽兼寛が守る大隈入船(牛根)城を攻めた。
入船城は1年3ヶ月に渡る籠城を続けたが力尽き開城した。
その後肝付兼亮も島津氏に降った。
高原城の戦い(たかはるじょうのたたかい)
1576年8月19日 ~ 23日
宮崎県西諸県郡高原町
伊地知氏や肝付氏ら大隅の国衆を完全に帰服させた島津義久は、次は日向を手中に収めるべく、天正4年(1576年)8月19日、伊東義祐の属城である高原城を3万の軍勢で攻撃する。
木崎原の戦いで島津氏に大敗した伊東氏は、この高原城に伊東勘解由をおいて島津氏の侵攻に備えていたが、島津軍は城下の防塁を払い除け火を放ったため、城兵は籠城せざるを得なかった。
そのとき高原城には370余名ほどの兵しかいなかったようだ。
島津軍は二の門まで破るも三の門で激しい抵抗に遭い多数の死傷者を出したため、大軍で包囲したうえで水の手を断たせた。
翌20日は両軍の弓矢による攻撃が行われ、双方に100名近くの死傷者が出たという。
伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出すも、救援を遂げるには至らなかった。
21日、水に窮した城兵は矢文にて和議を申し入れ、22日に交渉が行われ、23日に降伏開城した。
その後、長倉祐政ら城兵170余名は野尻方面へ退却した。
義久は奪取した高原城に家臣の上原尚近を入れ、高原地頭に任命した。
都於郡城の戦い(とのこおりじょうのたたかい)
1577年12月10日 ~ 11日
宮崎県西都市都於郡町
島津義久は、天正5年(1577年)12月、日間飯野城に拠る弟の島津義弘に命じて、伊東領への本格的な侵攻を命じた。
まず、伊東方の野尻城主・福永祐友が、島津方である高原城主・上原尚近の説得を受け入れ島津方に寝返った。
伊東氏と姻戚関係にあった福永氏が寝返ったことにより、内山城主の野村刑部少輔文綱や紙屋城主の米良主税助らも次々と島津方へ寝返った。
12月7日、島津義弘が野尻城を落とすと、戸崎城・紙屋城・富田城など、日向の城は次々と開城し、島津氏は佐土原の西部を完全に手中に収めた。
12月8日、伊東義祐は領内諸将を動員し、紙屋城奪還のため出陣するも、背後の伊東家譜代家臣の謀反の動きを察知し即座に反転して佐土原に帰城。
12月9日、佐土原城で事態打開の評定が開かれた。
南の島津方は飫肥を越え、佐土原へ攻め寄せるのは必至であり、後詰の当てがない状況だったため、籠城して島津軍を迎撃する声はなかった。
抵抗を諦めた伊東義祐は、12月11日、日向を捨て次男・義益正室の阿喜多の叔父である大友宗麟を頼って豊後に逃れる決断を下した。
豊後の進路上に、新納院財部城主・落合兼朝も島津氏に迎合して挙兵した報せが入った。
落合氏は伊東氏が日向に下向する以前からの重臣で譜代の筆頭格であったが、義祐の寵臣・伊東帰雲斎の専横が元で子息の落合丹後守を殺されており、それを深く恨んでいた。
落合兼朝の裏切りにより、伊東義祐は己の今までの愚行に気付き、切腹しようとするも家臣らに止められる。
一行は財部に入るのを諦め、西に迂回し米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通ることにした。
女子供を連れての逃避行はかなり辛く苦しく、また険峻な山を猛吹雪の中進まねばならず、当初120~150名程度だった一行は、途中崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決したものなどが後を絶たず、また島津からの追撃や山賊にも悩まされ、豊後国に着いた時はわずか80名足らずになっていたという(豊後落ち)。
その中には後に天正遣欧少年使節の一人となる伊東マンショの幼い姿もあった。
都於郡城には島津義久が入城し、これにより三州は島津氏によって統一された。
その後の都於郡城は、豊臣秀吉の九州征伐である高城の戦いにおける前線基地となっている。
この合戦に登場する武将
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島津貴久 (しまづたかひさ)
島津家15代当主。忠良の嫡男。父の補佐を受けて所領を広げ、薩摩統一を果たす。新兵器・鉄砲の導入や積極的な外交政策などで島津家飛躍の土台を築いた。
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島津日新斎 (しまづじっしんさい)
伊作島津家10代当主。嫡男・貴久に島津宗家の家督を継がせる。「いろは歌」を作って家臣の教育にあたるなど、島津家隆盛の基盤を作った島津家中興の祖。
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島津実久 (しまづさねひさ)
薩州島津家5代当主。宗家当主の地位を望むが拒否されたため、宗家に背く。一時は勢力を拡大するが、島津忠良との戦いに敗れて降伏、薩摩出水に逼塞した。
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伊集院忠朗 (いじゅういんただあき)
島津家臣。知勇に優れ、主家の薩摩統一に貢献した。大隅加治木城攻めの際には日本で初めて鉄砲を実戦に使用した。のちに老中に就任し、国政に参画した。
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伊集院忠倉 (いじゅういんただあお)
島津家臣。忠朗の子。父とともに大隅加治木城主・肝付兼演を攻撃して降伏させその所領の処理を担当する。のちに老中に就任し、主家の勢力拡大に貢献した。
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樺山善久 (かばやまよしひさ)
島津家の庶流。貴久に仕えて度々武功を挙げた。歌人としても知られ、城内に歌を書きつけて逃亡した敵を追撃し、返歌を矢に結んで放ったという逸話が残る。
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北郷忠相 (ほんごうただすけ)
日向の豪族。伊東家とたびたび激しく争う。伊東尹祐が急死した際、一時和議を結ぶが、島津忠朝らと結んで再び伊東家を攻め、旧領を回復した。
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種子島時堯 (たねがしまときたか)
島津家臣。種子島の領主。恵時の嫡男。大隅の豪族・禰寝家と抗争した。種子島に漂着したポルトガル船から鉄砲を入手し、分析・改良して国産化に成功した。
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肝付兼演 (きもつきかねひろ)
大隅肝付家の庶流。義盛の父。本家が島津家に対抗する中、島津忠良に通じて加治木城主となる。のち忠良、貴久と敵対するも敗退して降伏、再び臣従した。
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北原兼孝 (きたはらかねたか)
日向の豪族。伊東家と結び、北郷家などと戦う。しかし、後継者問題を巡る紛争で北原家は伊東家に乗っ取られ、兼孝自身も伊東家家臣の凶刃に倒れた。
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島津義久 (しまづよしひさ)
島津家16代当主。貴久の嫡男。優秀な弟たちの協力により領土を拡大、九州をほぼ手中に収めるが、豊臣秀吉の九州征伐軍に敗北し、薩摩1国を安堵された。
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島津義弘 (しまづよしひろ)
島津家17代当主。貴久の次男。伊東・大友両家を粉砕し、島津家を隆盛に導いた家中随一の猛将。朝鮮派兵の際は明の大軍を破り「鬼石曼子」と恐れられた。
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祁答院良重 (けどういんよししげ)
大隈の豪族。岩剣城主。大隈・薩摩の国境で支配地を拡大するが、島津貴久の侵攻を受け、次第に所領を奪われる。岩剣城を落とされた後、殺害される。
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蒲生範清 (かもうのりきよ)
大隅の豪族。島津家と争い、岩剣城に義久・義弘・歳久3兄弟が攻め寄せると、日本初となる鉄砲同士による合戦を行った。のちに島津家に降伏した。
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島津歳久 (しまづとしひさ)
島津家臣。貴久の三男。日置島津家の祖となる。豊臣秀吉の九州征伐軍に最後まで抵抗した。多くの家臣が梅北国兼の乱に加担したため、責任をとり自害した。
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新納忠元 (にいろただもと)
島津家臣。薩摩馬越城攻めや肥後経略など、各地の合戦で活躍し、島津家の看経所に名を残した4人のうちの1人。「二才咄格式定目」を著して子弟を戒めた。
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伊東祐安 (いとうすけやす)
伊東家臣。義祐の義弟という。知勇兼備の将といわれた。木崎原合戦の際に総大将を務めるが、兵力に劣る島津軍の攪乱戦法や奇襲攻撃の前に敗れ、戦死した。
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相良義陽 (さがらよしひ)
肥後の戦国大名。人吉城主。晴広の子。祖父・上村頼興の後見を受ける。2度の内乱を乗り切って領国を拡大するが島津家に降り、阿蘇家との戦いで戦死した。
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島津以久 (しまづもちひさ)
相州家5代当主。忠将の子。一門として義久に重用され、数々の合戦で武功を挙げた。関ヶ原合戦で戦死した島津豊久の所領を継承し、初代佐土原藩主となる。
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禰寝重長 (ねじめしげたけ)
禰寝家16代当主。根占領主。清年の嫡男。肝付家に従う。のちに島津家と単独講和し、肝付軍に攻められるが、島津家の援助で撃退した。対明貿易を行った。
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伊地知重興 (いじちしげおき)
大隅の豪族。小浜城主。肝付家と結んで島津家に対抗するが、島津軍に居城を落とされたため、降伏した。その後は島津家に属し、大友家攻めなどに従軍した。
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安楽兼寛 (あんらくかねひろ)
肝付家臣。大隅入船城主。島津義久軍の攻撃を受けた際、居城に籠城して応戦する。しかし主家から援軍は来ず、1年3カ月の籠城戦の末、島津軍に降伏した。
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長倉祐政 (ながくらすけまさ)
伊東家臣。島津軍との戦いで敵将を討ち取る功を立て、伊東姓を賜る。主家の豊後退去後、日向に残る旧臣を糾合して一揆を企むが失敗した。耳川合戦で戦死。
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伊東義祐 (いとうよしすけ)
日向の戦国大名。伊東家最大の版図を築くが、木崎原合戦で島津軍に敗れ衰退。豊後の大友宗麟を頼るが、大友軍が耳川合戦で大敗したあとは各地を流浪した。
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伊東義益 (いとうよします)
日向の戦国大名。義祐の子。庶子であったが、嫡子が夭逝のため家督を継ぎ、父の後見を受けて伊東家の全盛時代を築き上げた。島津家との対陣中に病死した。
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伊東マンショ (いとうまんしょ)
伊東義祐の孫でキリシタン。名は祐益、マンショは洗礼名。大友宗麟の縁戚で、遣欧使節正使となる。教皇やイスパニア国王に拝謁し、帰国後司祭になった。