徳川家康の三河平定
徳川家康の三河平定
1561年5月
徳川家康と鵜殿長照
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西尾城の戦い(にしおじょうのたたかい)
1561年5月
愛知県西尾市錦城町
酒井正親
WIN
牧野成定
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桶狭間の戦い後、駿河の今川氏真は三河の要衝である西尾城に三河牛窪城主である牧野成定を入れて守らせていた。
永禄4年(1561年)5月、東条吉良氏の一門である荒川義広の内通により、今川氏から離反した松平元康は家臣の酒井正親に命じて西尾城を攻撃させる。
この戦いで敵わずと判断した成定は、西尾城を脱して牛窪城に戻ると、元康は正親を西尾城主とした。
こののち成定は元康に服属し、子孫はのち越後長岡・信濃小諸・常陸笠間などの藩主となっている。
野田城の戦い(のだじょうのたたかい)
1561年7月29日
愛知県新城市豊島本城
永禄4年(1561年)7月29日、菅沼定盈は松平元康に通じたため、今川氏真は小原鎮実に菅沼定盈が守る野田城攻めを命じた。
今川勢に包囲された定盈は、勧告を受け入れて開城降伏。
隣郡八名郡の西川城主で従兄弟にあたる西郷清員の許へ落ちのびた。
翌永禄5年(1562年)6月2日、今川氏真の一族である堀越氏延が反乱鎮圧のために遠江見附城で挙兵した合隙をぬって、菅沼定盈は野田城を攻撃した。
定盈の夜襲により野田城が陥落し、城代・稲垣氏俊は討死。
再び城主に復帰した。
藤波畷の戦い(ふじなみなわてのたたかい)
1561年9月13日
愛知県幡豆郡吉良町
永禄4年(1561年)4月、松平元康は東条吉良領を切り取ろうとして、牛窪城や東条城攻めを仕掛け今川氏からの自立を明確にした。
東条城は2ヶ月籠城し容易に陥落しなかったため、元康は津平に松井忠次、小牧に本多広孝、糟塚に小笠原長茲を配置させ砦を築かせた。
しかし室城の城主である吉良家家老の富永忠元は善明堤の戦いで、東条領中島城を奪還する奮戦を見せ、松平側は中島城主の松平好景を失うなど損害を蒙った。
9月13日、松平元康は吉良義昭が守る三河東条城攻めを本多広孝に命じた。
これに対し、吉良義昭は家老の富永忠元に命じて本多勢を三河の藤浪畷で迎え撃たせる。
広孝が先鋒で先駆けし、松井忠次弟の松井光次(次郎兵衛尉)が後詰めで進撃した。
富永忠元はいつもの如く先駆けしたが、単騎で突出して孤立したたため、松平軍が殺到し逃げる忠元を藤波畷まで追いつめた。
松平方の大久保大八郎・鳥居半六郎が追いつき戦いを挑むが忠元に斬られてしまった。
しかし忠元はここで体力が尽きたため、本多広孝の槍の前に突き伏せられ、広孝の家来である本多甚十郎に殺された。
忠元を頼りとしていた義昭は、忠元の死を知り抵抗を諦めて降伏し身柄を岡崎城に移された。
ちなみに吉良氏は、のちに江戸幕府の高家となっている。
上郷城の戦い(かみのごうじょうのたたかい)
1562年2月4日
愛知県蒲郡市神ノ郷町
永禄5年(1562年)正月15日、松平元康(後の徳川家康)は尾張清洲城の織田信長と同盟を結ぶ。
これにより今川氏真の人質として駿府におかれていた妻子の身を案じた元康は、2月4日、今川氏の縁戚にあたり桶狭間の戦い後も一貫して今川家に忠誠を尽くしていた鵜殿長照が守る三河上郷城を攻撃する。
長照はよく守り、堅城である上ノ郷城はなかなか落城しなかった。
そのため元康は甲賀衆を用いて城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入ったと伝わっている。
鵜殿長照は殺され、長照の二人の子である氏長と氏次は生捕りにされた。
その後元康は、人質とした長照の子二人と交換する形で、正室瀬名姫と長男の信康・長女亀姫を無事取り返すことに成功した。
吉田城の戦い(よしだじょうのたたかい)
1564年6月14日 ~ 20日
愛知県豊橋市今橋町
永禄5年(1562年)正月15日、松平元康(後の徳川家康)は尾張清洲城の織田信長と同盟を結ぶ。
永禄6年(1563年)7月、松平元康は今川義元の偏諱をうけた「元康」という名から「家康」に改め、今川氏との決別を示す。
永禄7年(1564年)6月、三河平定を目指す家康は、今川氏真の家臣である小原鎮実が守る東三河の要衝吉田城を包囲する。
後詰のあてがない中10カ月にわたり籠城するも、降伏勧告を容れた鎮実が開城して駿河に退去した。
家康は酒井忠次を吉田城主とし、関東移封になるまで以降15年間忠次がこの地を治めた。
なお、駿河に退去した鎮実はこののちも家康に抗戦し続けることになる。
田原城の戦い(たはらじょうのたたかい)
1564年6月 ~ 1566年
愛知県田原市田原町
本多広孝
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朝比奈元智
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この合戦に登場する武将
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菅沼定盈 (すがぬまさだみつ)
今川家臣。野田城主。桶狭間合戦後、徳川家に仕える。武田信玄の三河侵攻では一族の多くが信玄に寝返る中、一貫して徳川家に属し、居城を攻め落とされた。
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鳥居元忠 (とりいもとただ)
徳川家臣。関ヶ原合戦の際に主君・家康の命で伏見城に籠城する。13日間の攻防戦の末、城兵とともに玉砕した。その忠節は「三河武士の鑑」と称賛された。
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徳川家康 (とくがわいえやす)
江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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鵜殿長照 (うどのながてる)
今川家臣。長持の子。桶狭間合戦後、三河の武将が次々と徳川家に属す中、唯一今川方に残る。そのため、三河平定を目指す徳川軍の攻撃を受け、敗死した。
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鵜殿氏長 (うどのうじなが)
今川家臣。長照の子。父が戦死した際に徳川家康に捕らえられ、家康の妻子と引き換えに駿府城に赴く。主家滅亡後は徳川家に属し、長篠合戦などに従軍した。
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酒井忠次 (さかいただつぐ)
徳川家臣。徳川四天王筆頭。主君・家康の養育係を務めた。家康成人後は東三河衆を率いて各地を転戦し活躍。その才覚は織田信長や豊臣秀吉にも称賛された。