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  • ● 1582年 織田信長が徳川家康に駿河を与える
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この人誰?

西郷局

徳川家康の三河平定

1561年5月

徳川家康と鵜殿長照

目次[非表示]

西尾城の戦い(にしおじょうのたたかい)

1561年5月

愛知県西尾市錦城町

酒井正親

WIN

牧野成定

LOSE

桶狭間の戦い後、駿河の今川氏真は三河の要衝である西尾城に三河牛窪城主である牧野成定を入れて守らせていた。

永禄4年(1561年)5月、東条吉良氏の一門である荒川義広の内通により、今川氏から離反した松平元康は家臣の酒井正親に命じて西尾城を攻撃させる。
この戦いで敵わずと判断した成定は、西尾城を脱して牛窪城に戻ると、元康は正親を西尾城主とした。

こののち成定は元康に服属し、子孫はのち越後長岡・信濃小諸・常陸笠間などの藩主となっている。

野田城の戦い(のだじょうのたたかい)

1561年7月29日

愛知県新城市豊島本城

小原鎮実

WIN

LOSE

永禄4年(1561年)7月29日、菅沼定盈松平元康に通じたため、今川氏真は小原鎮実に菅沼定盈が守る野田城攻めを命じた。

今川勢に包囲された定盈は、勧告を受け入れて開城降伏。

隣郡八名郡の西川城主で従兄弟にあたる西郷清員の許へ落ちのびた。

翌永禄5年(1562年)6月2日、今川氏真の一族である堀越氏延が反乱鎮圧のために遠江見附城で挙兵した合隙をぬって、菅沼定盈は野田城を攻撃した。

定盈の夜襲により野田城が陥落し、城代・稲垣氏俊は討死。

再び城主に復帰した。

藤波畷の戦い(ふじなみなわてのたたかい)

1561年9月13日

愛知県幡豆郡吉良町

本多広孝

松平信一

松井光次

大久保大八郎

鳥居半六郎

本多甚十郎

WIN

富永忠元

LOSE

永禄4年(1561年)4月、松平元康は東条吉良領を切り取ろうとして、牛窪城や東条城攻めを仕掛け今川氏からの自立を明確にした。

東条城は2ヶ月籠城し容易に陥落しなかったため、元康は津平に松井忠次、小牧に本多広孝、糟塚に小笠原長茲を配置させ砦を築かせた。

しかし室城の城主である吉良家家老の富永忠元は善明堤の戦いで、東条領中島城を奪還する奮戦を見せ、松平側は中島城主の松平好景を失うなど損害を蒙った。

9月13日、松平元康は吉良義昭が守る三河東条城攻めを本多広孝に命じた。

これに対し、吉良義昭は家老の富永忠元に命じて本多勢を三河の藤浪畷で迎え撃たせる。

広孝が先鋒で先駆けし、松井忠次弟の松井光次(次郎兵衛尉)が後詰めで進撃した。

富永忠元はいつもの如く先駆けしたが、単騎で突出して孤立したたため、松平軍が殺到し逃げる忠元を藤波畷まで追いつめた。

松平方の大久保大八郎・鳥居半六郎が追いつき戦いを挑むが忠元に斬られてしまった。

しかし忠元はここで体力が尽きたため、本多広孝の槍の前に突き伏せられ、広孝の家来である本多甚十郎に殺された。

忠元を頼りとしていた義昭は、忠元の死を知り抵抗を諦めて降伏し身柄を岡崎城に移された。

元康は手に入れた東条城に家臣の鳥居元忠・松平信一をおく。

ちなみに吉良氏は、のちに江戸幕府の高家となっている。

上郷城の戦い(かみのごうじょうのたたかい)

1562年2月4日

愛知県蒲郡市神ノ郷町

鵜殿氏次

LOSE

永禄5年(1562年)正月15日、松平元康(後の徳川家康)は尾張清洲城の織田信長と同盟を結ぶ。

これにより今川氏真の人質として駿府におかれていた妻子の身を案じた元康は、2月4日、今川氏の縁戚にあたり桶狭間の戦い後も一貫して今川家に忠誠を尽くしていた鵜殿長照が守る三河上郷城を攻撃する。

長照はよく守り、堅城である上ノ郷城はなかなか落城しなかった。

そのため元康は甲賀衆を用いて城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入ったと伝わっている。

鵜殿長照は殺され、長照の二人の子である氏長と氏次は生捕りにされた。

その後元康は、人質とした長照の子二人と交換する形で、正室瀬名姫と長男の信康・長女亀姫を無事取り返すことに成功した。

吉田城の戦い(よしだじょうのたたかい)

1564年6月14日 ~ 20日

愛知県豊橋市今橋町

小原鎮実

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永禄5年(1562年)正月15日、松平元康(後の徳川家康)は尾張清洲城の織田信長と同盟を結ぶ。

永禄6年(1563年)7月、松平元康今川義元の偏諱をうけた「元康」という名から「家康」に改め、今川氏との決別を示す。
永禄7年(1564年)6月、三河平定を目指す家康は、今川氏真の家臣である小原鎮実が守る東三河の要衝吉田城を包囲する。

後詰のあてがない中10カ月にわたり籠城するも、降伏勧告を容れた鎮実が開城して駿河に退去した。

家康酒井忠次を吉田城主とし、関東移封になるまで以降15年間忠次がこの地を治めた。

なお、駿河に退去した鎮実はこののちも家康に抗戦し続けることになる。

田原城の戦い(たはらじょうのたたかい)

1564年6月 ~ 1566年

愛知県田原市田原町

本多広孝

WIN

朝比奈元智

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬