東北の関ヶ原
東北の関ヶ原
1600年7月
西軍の上杉景勝と東軍の伊達政宗
豊臣秀吉が死去すると、五大老筆頭の徳川家康が次の覇者の座を狙い始めた。
そして秀吉生前の掟を破って伊達政宗や蜂須賀家政らの大名と婚姻を結ぶなどして政権内部で影響力をさらに強めたため、五奉行の石田三成ら反家康派と対立していく。
慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老の次席格で中立の立場をとっていた前田利家が死去すると、家康の勢いはもはやとどまることがなく、慶長5年(1600年)に入ると家康と三成の対立はもはや避けられないものとなった。
そして、会津の上杉景勝が年賀の挨拶で上洛せず、さらに最上義光や堀秀治らから景勝が領内で軍備を増強しているという(でっち上げの)訴えがあったため、家康と景勝の対立が起こる。
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家康は景勝に陳弁のための上洛を求めたが、景勝とその家老の直江兼続はこれを拒否したため、家康の号令で会津征伐が発生した。
伊達政宗が上杉領の白石城を攻めると、出羽山形城の最上義光も、景勝と手を切り東軍に属した。
そのために景勝から攻められることになった義光は、 本城の山形城や支城の上山城と長谷堂城の3城を拠点として、上杉勢を迎え撃つ。
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白石城の戦い(しろいしじょうのたたかい)
1600年7月24日 ~ 25日
宮城県白石市益岡町
徳川家康は伊達政宗に対し、かつて豊臣秀吉によって奪われた白石城(伊達家旧領地)の攻略話を持ち掛けます。
伊達政宗にとっても、白石城を含む旧領地を取り戻す好機でした。
信夫口から上杉領に侵攻する場合は刈田郡に入ることになる。
この刈田郡を抑える拠点が白石城で、伊達勢は白石城攻略にかかります。
上杉氏の白石城代は甘粕景継であったが、景勝の命令で若松城に詰めていたため、甥の登坂勝乃が代理として守備していた。
7月24日にこれを好機ととらえた岩出山城の伊達政宗は白石城を急襲。
城下町や外曲輪、三の丸に火をかけて炎上させた。
伊達軍は城の地理に明るかったため登坂勝乃は防戦に務めるも、その日のうちに700余が討ち取られてしまう。
7月25日午前までには本丸を除く全域を支配した。
登坂勝乃は勝機なしとして降伏しようとしたが、かつて政宗に滅ぼされた二本松畠山氏の旧臣・鹿子田右衛門が降伏に猛反対した。
このため、勝乃は右衛門を謀殺して政宗に降伏した。
政宗は叔父の石川昭光に守備を任せて北目城に引き揚げた。
河股城の戦い(かわまたじょうのたたかい)
1600年7月24日
福島県伊達郡川俣町東福沢
1600年7月24日、伊達政宗が白石城を攻撃したのとほぼ同じ頃、政宗配下の陸奥駒ヶ嶺城主・桜田元親は、上杉領の伊達郡に侵入して、上杉景勝の属城となっていた陸奥河股城を攻略する。
桜田元親は、飯野、秋山、大波、小島を焼払い大舘に陣を取る。
しかし上杉勢の援軍に攻撃されると、すぐに城を捨てて居城の駒ヶ嶺城に戻った。
もともと河股城を占拠した元親は、上杉勢を釘打ちしておくための陽動作戦だったらしい。
梁川、福島の上杉勢は元親に釘付けにされ白石救援に赴くことができず、政宗は白石城を手中に収めることができた。
畑谷城の戦い(はたやじょうのたたかい)
1600年9月13日
山形県東村山郡山辺町畑谷
上杉景勝と結んでいた出羽山形城の最上義光は、徳川家康による会津攻めを受け、家康側につく。
このため、景勝は腹心の直江兼続に最上氏を攻めさせたのである。
兼続率いる上杉勢2万余は、まず出羽畑谷城を目標とした。
3方向から攻め、兼続自身は置賜より荒砥方面を経由して狐越街道を山形城へ向けて進軍し、畑谷城に迫った。
これに対し義光は上杉勢を山形城まで引摺り込む作戦を取るべく、畑谷城城主の江口光清に撤退命令を出した。
しかし光清は「敵を目前にして城を捨てたとあっては末代までの名折れ」と言ってこれを聞き入れず、畑谷城に残り上杉勢を迎え撃つことにした。
9月11日未明、畑谷城は上杉勢約2万余の軍勢に囲まれる。
兼続は「開城すれば名誉ある処遇をする」と申し出るも、光清はこれを拒否し一族の子女を城外に逃がしたうえで約300名の手勢を率いて籠城策に出た。
上杉勢は13日未明に攻撃を開始したが、城内よりの応戦が激しく、攻めあぐねていた。
そこで兼続は一部の手勢を畑谷城の裏山に回らせ、一斉攻撃を開始。
これには城兵らもたまらず、光清の指揮により全員が打って出た。
光清らの死にもの狂いの奮戦に上杉勢は正面より相手にする者はいなかったが、多勢に無勢、子の江口小吉時直や、甥の松田忠作らが討取られ、光清も城内に戻り自刃して果てた。
この間約一刻(約2時間)であったという。
こうして畑谷城は落城したが、光清の奮戦ぶりは最上勢の士気を大いに高める事となり、また上杉勢はこの戦いによって1,000名にも上る死傷者を出して2日間の足止めを受けた。
これにより、この後の長谷堂城合戦での上杉勢撃退に繋がる事となった。
畑谷城を落とした上杉勢は、長谷堂城に向かった。
上山の戦い(かみのやまのたたかい)
1600年9月17日
山形県上山市藤吾赤坂周辺
本村親盛
清水康徳
横田旨俊
横田洞庵
時田岩瀬
LOSE
里見民部少輔
草刈志摩守
WIN
畑谷城の攻略に向かった直江兼続の一隊とは別に、本村親盛・清水康徳・横田旨俊らは最上義光が居る山形城とは目と鼻の先にある出羽上山城に向かう。
上杉勢は拠点の中山城に集結し9月16日に作戦会議を開いた。
その会議で横田は「明日17日は亡日(縁起が悪い日)で、出陣なら18日がよかろう」と言ったが、本村は「味方が亡日なら、敵にとっても亡日だから気にするな」と話し、9月17日に出陣した。
さらに高畠城からは、志賀吉兵衛が兵数1000で上山城を始めた。
最上勢の上山城主・里見越後守は山形城に入っていたため、子の里見民部少輔以下500余で上山城を守っていた。
最上義光の日記によると、(余裕がなかったため)上山へは援軍を送っていないと記されている。
9月17日に上杉軍が、物見山から松木次右衛門が陣貝(法螺貝)を鳴らすと進軍が始まった。
先陣・本村親盛・清水康徳が前川ダムの山間から鍵取山~赤坂上の台へ進軍。
横田旨俊・横田洞庵・時田岩瀬らは、通称・火付け備えという建物を燃やしたりと焼き討ち専門部隊として、川口から高松方面・藤吾方面へ進軍した。
上山城の最上軍である草刈志摩守は、上杉軍の先陣が前川ダム周辺へ向かうのを察知すると兵300人を率いて、鍵取山、沢入り中山という場所で隠れ伏兵戦にでた。
これは織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いに似ていて、上杉軍が細い山道で兵が長蛇の列で軍列が伸びきっている所を、最上軍が急襲した。
不意の襲撃を受けた上杉勢は、大将の本村親盛が討死したため、総崩れとなり敗走していった。
長谷堂城の戦い(はせどうじょうのたたかい)
1600年9月15日 ~ 10月1日
山形県山形市長谷堂
長谷堂合戦の地
この合戦に登場する武将
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伊達政宗 (だてまさむね)
伊達家17代当主。輝宗の嫡男。瞬く間に周辺諸国を切り従えて24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。
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上杉景勝 (うえすぎかげかつ)
出羽米沢藩主。長尾政景の子。上杉謙信の養子となった。謙信の死後、御館の乱に勝利して家督を継いだ。関ヶ原合戦では西軍に属し、最上・伊達軍と戦った。
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直江兼続 (なおえかねつぐ)
上杉家臣。筆頭家老を務めた。豊臣秀吉の評価は高く、陪臣ながら出羽米沢30万石を領した。関ヶ原合戦の際は西軍に属し、徳川家康に「直江状」を送った。
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江口光清 (えぐちあききよ)
最上家臣。義光重臣。慶長出羽合戦にて最前線にあたる畑谷城に寡兵で籠もり、上杉軍の猛攻を食い止める。直江兼続の勧告を固辞し、壮絶な最期を遂げた。
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志村光安 (しむらあきやす)
最上家臣。主君・義光の腹心として活躍し「いかなる強敵も彼には降った」といわれた。関ヶ原合戦の際は長谷堂城を守り、直江兼続の大軍を見事に撃退した。