今日は何の日?

  • ● 1557年 毛利元就が周防を平定
  • ● 1574年 織田信長が朝廷より名香木の蘭奢待を拝領する
  • ● 1611年 豊臣秀頼が徳川家康と二条城で会見
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この人誰?

吉田重政

東北の関ヶ原

1600年7月

西軍の上杉景勝と東軍の伊達政宗

豊臣秀吉が死去すると、五大老筆頭の徳川家康が次の覇者の座を狙い始めた。
そして秀吉生前の掟を破って伊達政宗蜂須賀家政らの大名と婚姻を結ぶなどして政権内部で影響力をさらに強めたため、五奉行の石田三成ら反家康派と対立していく。
慶長4年(1599年)閏3月3日に五大老の次席格で中立の立場をとっていた前田利家が死去すると、家康の勢いはもはやとどまることがなく、慶長5年(1600年)に入ると家康三成の対立はもはや避けられないものとなった。

そして、会津の上杉景勝が年賀の挨拶で上洛せず、さらに最上義光堀秀治らから景勝が領内で軍備を増強しているという(でっち上げの)訴えがあったため、家康景勝の対立が起こる。

直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】

家康は景勝に陳弁のための上洛を求めたが、景勝とその家老の直江兼続はこれを拒否したため、家康の号令で会津征伐が発生した。

伊達政宗が上杉領の白石城を攻めると、出羽山形城の最上義光も、景勝と手を切り東軍に属した。
そのために景勝から攻められることになった義光は、 本城の山形城や支城の上山城と長谷堂城の3城を拠点として、上杉勢を迎え撃つ。

目次[非表示]

白石城の戦い(しろいしじょうのたたかい)

1600年7月24日 ~ 25日

宮城県白石市益岡町

登坂式部少輔

鹿子田右衛門

LOSE

徳川家康伊達政宗に対し、かつて豊臣秀吉によって奪われた白石城(伊達家旧領地)の攻略話を持ち掛けます。
伊達政宗にとっても、白石城を含む旧領地を取り戻す好機でした。

信夫口から上杉領に侵攻する場合は刈田郡に入ることになる。
この刈田郡を抑える拠点が白石城で、伊達勢は白石城攻略にかかります。

上杉氏の白石城代は甘粕景継であったが、景勝の命令で若松城に詰めていたため、甥の登坂勝乃が代理として守備していた。
7月24日にこれを好機ととらえた岩出山城の伊達政宗は白石城を急襲。
城下町や外曲輪、三の丸に火をかけて炎上させた。
伊達軍は城の地理に明るかったため登坂勝乃は防戦に務めるも、その日のうちに700余が討ち取られてしまう。
7月25日午前までには本丸を除く全域を支配した。

登坂勝乃は勝機なしとして降伏しようとしたが、かつて政宗に滅ぼされた二本松畠山氏の旧臣・鹿子田右衛門が降伏に猛反対した。
このため、勝乃は右衛門を謀殺して政宗に降伏した。
政宗は叔父の石川昭光に守備を任せて北目城に引き揚げた。

河股城の戦い(かわまたじょうのたたかい)

1600年7月24日

福島県伊達郡川俣町東福沢

桜田元親

WIN

LOSE

1600年7月24日、伊達政宗が白石城を攻撃したのとほぼ同じ頃、政宗配下の陸奥駒ヶ嶺城主・桜田元親は、上杉領の伊達郡に侵入して、上杉景勝の属城となっていた陸奥河股城を攻略する。
桜田元親は、飯野、秋山、大波、小島を焼払い大舘に陣を取る。
しかし上杉勢の援軍に攻撃されると、すぐに城を捨てて居城の駒ヶ嶺城に戻った。
もともと河股城を占拠した元親は、上杉勢を釘打ちしておくための陽動作戦だったらしい。
梁川、福島の上杉勢は元親に釘付けにされ白石救援に赴くことができず、政宗は白石城を手中に収めることができた。

畑谷城の戦い(はたやじょうのたたかい)

1600年9月13日

山形県東村山郡山辺町畑谷

上杉景勝と結んでいた出羽山形城の最上義光は、徳川家康による会津攻めを受け、家康側につく。
このため、景勝は腹心の直江兼続に最上氏を攻めさせたのである。
兼続率いる上杉勢2万余は、まず出羽畑谷城を目標とした。
3方向から攻め、兼続自身は置賜より荒砥方面を経由して狐越街道を山形城へ向けて進軍し、畑谷城に迫った。

これに対し義光は上杉勢を山形城まで引摺り込む作戦を取るべく、畑谷城城主の江口光清に撤退命令を出した。
しかし光清は「敵を目前にして城を捨てたとあっては末代までの名折れ」と言ってこれを聞き入れず、畑谷城に残り上杉勢を迎え撃つことにした。

9月11日未明、畑谷城は上杉勢約2万余の軍勢に囲まれる。
兼続は「開城すれば名誉ある処遇をする」と申し出るも、光清はこれを拒否し一族の子女を城外に逃がしたうえで約300名の手勢を率いて籠城策に出た。

上杉勢は13日未明に攻撃を開始したが、城内よりの応戦が激しく、攻めあぐねていた。
そこで兼続は一部の手勢を畑谷城の裏山に回らせ、一斉攻撃を開始。
これには城兵らもたまらず、光清の指揮により全員が打って出た。
光清らの死にもの狂いの奮戦に上杉勢は正面より相手にする者はいなかったが、多勢に無勢、子の江口小吉時直や、甥の松田忠作らが討取られ、光清も城内に戻り自刃して果てた。
この間約一刻(約2時間)であったという。

こうして畑谷城は落城したが、光清の奮戦ぶりは最上勢の士気を大いに高める事となり、また上杉勢はこの戦いによって1,000名にも上る死傷者を出して2日間の足止めを受けた。

これにより、この後の長谷堂城合戦での上杉勢撃退に繋がる事となった。

畑谷城を落とした上杉勢は、長谷堂城に向かった。

上山の戦い(かみのやまのたたかい)

1600年9月17日

山形県上山市藤吾赤坂周辺

本村親盛

清水康徳

横田旨俊

横田洞庵

時田岩瀬

LOSE

里見民部少輔

草刈志摩守

WIN

畑谷城の攻略に向かった直江兼続の一隊とは別に、本村親盛・清水康徳・横田旨俊らは最上義光が居る山形城とは目と鼻の先にある出羽上山城に向かう。
上杉勢は拠点の中山城に集結し9月16日に作戦会議を開いた。

その会議で横田は「明日17日は亡日(縁起が悪い日)で、出陣なら18日がよかろう」と言ったが、本村は「味方が亡日なら、敵にとっても亡日だから気にするな」と話し、9月17日に出陣した。
さらに高畠城からは、志賀吉兵衛が兵数1000で上山城を始めた。

最上勢の上山城主・里見越後守は山形城に入っていたため、子の里見民部少輔以下500余で上山城を守っていた。
最上義光の日記によると、(余裕がなかったため)上山へは援軍を送っていないと記されている。

9月17日に上杉軍が、物見山から松木次右衛門が陣貝(法螺貝)を鳴らすと進軍が始まった。
先陣・本村親盛・清水康徳が前川ダムの山間から鍵取山~赤坂上の台へ進軍。
横田旨俊・横田洞庵・時田岩瀬らは、通称・火付け備えという建物を燃やしたりと焼き討ち専門部隊として、川口から高松方面・藤吾方面へ進軍した。

上山城の最上軍である草刈志摩守は、上杉軍の先陣が前川ダム周辺へ向かうのを察知すると兵300人を率いて、鍵取山、沢入り中山という場所で隠れ伏兵戦にでた。
これは織田信長今川義元を破った桶狭間の戦いに似ていて、上杉軍が細い山道で兵が長蛇の列で軍列が伸びきっている所を、最上軍が急襲した。

不意の襲撃を受けた上杉勢は、大将の本村親盛が討死したため、総崩れとなり敗走していった。

長谷堂城の戦い(はせどうじょうのたたかい)

1600年9月15日 ~ 10月1日

山形県山形市長谷堂

長谷堂合戦の地

長谷堂合戦の地

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬