長宗我部元親の阿波・讃岐平定
長宗我部元親の阿波・讃岐平定
1575年8月
十河存保と長宗我部元親
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海部城の戦い(かいふじょうのたたかい)
1575年8月
徳島県海部郡海陽町
元亀2年(1571年)、長宗我部元親の弟・島親益が病気療養のために30余人の家来とともに有馬温泉に向かった。
途中突風が出たため、船を海部城下の那佐湾に入れた。
怪しい船が泊っているとの急報を受けた海部城主の海部友光は、手勢100余人を率いて親益の船を襲って親益を殺してしまう。
その4年後の天正3年(1575年)8月、元親は弟の仇を討つという名目で5000の軍勢をもって海部城を攻撃した。
三好元長の女婿にあたる友光は、鉄砲の名手である栗原伊賀右衛門らを指揮して防戦に努めたが落城し、友光は紀伊国の縁者を頼って落ち延びたと伝えられる。
白地城の戦い(はくちじょうのたたかい)
1577年2月
徳島県三好市池田町白地
阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐の長宗我部氏が台頭すると、天正3年(1575年)8月、四国の中央に位置する阿波白地城は四国統一を目指す長宗我部元親に攻められた。
三好方の白地城主である大西覚養は弟の大西頼包を人質にだして一旦降伏した。
しかし三好氏が織田氏に援軍を頼み長宗我部氏と対立姿勢を表明すると、大西覚養は三好笑岩の求めに応じて、長宗我部氏との和議を破った。
それにより長宗我部元親は、阿波の三好軍を破り、天正5年(1577年)2月に白地城の支城である田尾城をわずか2日で攻め落とした。
大西覚養は讃岐麻城に落ちのびることになったのである。
こののち元親は、奪取した白地城を阿波讃岐・伊予平定の拠点としている。
荒田野の戦い(あらたののたたかい)
1577年3月28日
徳島県阿南市新野町
天正5年3月初旬、阿波を実質的に支配していた勝瑞城主・三好長治は、対立する守護家の細川真之を討つため、阿波荒田野口に出陣した。
しかし仁宇谷までは山越えで道が険しく容易に攻めることができなかった。
このとき細川真之に通じていた一宮成助 (成祐)・伊沢頼俊ら有力国衆が真之に加勢して三好長治の背後を脅かした。
長治は撤退し今切城に入ったが成祐・頼俊らが二千の兵で攻撃したため支えきれず少数の家臣と共に脱出し、土佐泊城主の森村春に救援を求める。
しかし村春は悪天候で待ち合わせ場所を間違えてしまい救援に行けなかった。
仕方なく長治は船で淡路に逃げようとするが別宮浦で囲まれてしまい自刃した。
こののち、長治の弟で讃岐十河氏を継いでいた十河存保が勝瑞城に入り、三好氏の実質的な当主となっている。
重清城の戦い(しげきよじょうのたたかい)
1578年1月
徳島県美馬市美馬町字城
天正6年(1578年)正月、阿波に侵入した長宗我部元親は、三好氏に従う小笠原長政が守る阿波重清城を攻めた。
このとき先陣を命じられたのは、大西覚養から人質に出されていた覚養の弟・大西頼包である。
頼包と従兄弟の中鳥城主・久米形馬は、重清城を訪問し降伏を勧告する和談の途中で、城主の小笠原長政とその子らを謀殺した。
重清城を落とすと、出陣してきた十河(三好)存保の反撃により一旦城を奪還されるが、再度長宗我部軍が侵攻し重清城を落とし入れた。
讃岐に逃げていた覚養は、頼包の仲介によって元親に帰参し重清城の城主に迎えられている。
岩倉城の戦い(いわくらじょうのたたかい)
1578年1月
徳島県美馬市脇町岩倉
天正6年(1578年)正月、阿波に侵入した長宗我部元親は織田信長に重用されて畿内で活躍していた三好康長(笑岩)の属城である阿波岩倉城に攻め寄せる。
岩倉城は、康長の子の康俊が在城して守備していたが、長宗我部勢の猛攻を防ぎきれず、康俊は実子を人質にだして降伏した。
こののち天正10年(1582年)、康俊は信長の四国攻めに呼応して元親に反旗を翻すが、本能寺の変によって遠征が中止になると再び長宗我部勢(香宗我部親泰)に攻められ、城を捨てて逃亡したとも、この時に討死したともいわれている。
一宮城の戦い(いちのみやじょうのたたかい)
1581年7月 ~ 9月8日
徳島県徳島市一宮町
阿波勝瑞城の三好長治と対立していた一宮城主・一宮(小笠原)成助は、 細川真之に加勢して荒田野の戦いで三好長治を討った。
その後も長治の跡を継いで勝瑞城に入った十河存保と抗争を繰り広げ、天正8年(1580年)正月には存保を勝瑞城から讃岐十河城に追い払った。
翌天正9年(1581年)7月、織田信長と結び勝瑞城を回復した存保に一宮城が攻められたとき、長宗我部元親は家臣・久武親直らを後詰に送り十河勢を勝瑞に退却させた。
中富川の戦い(なかとみがわのたたかい)
1582年8月28日
徳島県板野郡藍住町・板野町一帯
長宗我部元親像
勝瑞城の戦い(しょうずいじょうのたたかい)
1582年9月21日
徳島県板野郡藍住町勝瑞
天正10年(1582年)9月、中富川の戦いに勝利した長宗我部元親は、勢いに乗じて2万の軍勢で勝瑞城に攻め寄せた。
勝瑞城はもともと阿波守護細川氏の守護所で、天文22年(1553年)に細川持隆が家臣・三好義賢に謀殺されたあとは、三好氏の居城となっており、このときは十河存之が城代として城を守り中富川の戦いの戦いの敗戦後、十河存保らが入っていた。
9月5日に大雨が5日間降り続き、吉野川本流と中富川が氾濫し板野平野一帯が洪水で湖化して、長宗我部軍は民家の屋根や木の上に登り避難した。
この状況をみた十河軍は、城兵を小舟に乗せ、屋根の下や木の下から長柄の槍で串刺しにしていった。
長宗我部軍は本陣を光勝院に移し、板野平野の水が引き下がると陣形を立て直し勝瑞城を攻撃した。
勝瑞城の内外で白兵戦となり、両軍でかなりの損害が出た。
本陣で指揮した十河存保は、玉砕覚悟で敵本陣へ攻勢をかけ最後の決戦にのぞもうとしたが、側近であった東村備後守の諫言を容れて勝瑞城へ引き揚げた。
21日に存保は降伏の誓詞を元親に入れ、勝瑞城の明け渡しを条件に存保に免罪をうけ、讃岐国の虎丸城へ退去した。
この戦いで両軍の死者数の合計は1500名にのぼる。
戦いの後、阿波の諸城はほとんどが長宗我部氏に降り、勝瑞城は元親によって破却されている。
十河城の戦い(そごうじょうのたたかい)
1582年10月 ~ 1584年6月11日
香川県高松市十川東町
引田表の戦い(ひきたおもてのたたかい)
1583年4月21日 ~ 22日
香川県東かがわ市引田一帯
この合戦に登場する武将
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長宗我部元親 (ちょうそかべもとちか)
土佐の戦国大名。岡豊城主。国親の子。剽悍の一領具足衆を率い、瞬く間に周辺諸国を制圧。10数年で四国統一を成し遂げ「土佐の出来人」の異名をとった。
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香宗我部親泰 (こうそかべちかやす)
長宗我部国親の三男。阿波中富川合戦で十河存保軍を破るなど、兄・元親の片腕として四国統一に貢献した。織田家に使者として赴くなど、外交でも活躍した。
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大西覚養 (おおにしかくよう)
阿波の豪族。白地城主。頼武の子。出雲守と称した。近隣の重清豊後守を滅ぼした際、重清家の一族・伊沢権之進に攻められ、敗れて願成寺で自害したという。
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三好長治 (みよしながはる)
義賢の子。父の死後、篠原長房の後見で家督を継ぐが、讒言に惑わされ、細川真之とともに長房を討った。のちに長宗我部元親に通じた真之と戦い、敗死した。
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細川真之 (ほそかわさねゆき)
持隆の子。父を殺した三好義賢に擁立され、阿波勝瑞城主となる。のち長宗我部元親とともに三好長治を討つが、長治の弟・十河存保に敗れ自害したという。
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小笠原成助 (おがさわらなりすけ)
三好家臣。一宮城主。主君・長慶の妹を娶る。和泉久米田合戦で三好軍が敗北を喫した際、軍をまとめて退却させ、賞賛された。のち長宗我部元親に殺された。
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大西頼包 (おおにしよりかね)
阿波の武将。大西家は三好家と誼を結んでいたが、頼包は人質として出された長宗我部元親に厚遇を受けて家臣となり、父を説得して長宗我部家に降伏させた。
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十河存保 (そごうまさやす)
三好義賢の子。叔父・十河一存の養子となる。豊臣秀吉に従い、長宗我部家に奪われた讃岐を奪回した。九州征伐では先鋒を務め、豊後戸次川合戦で戦死した。
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久武親直 (ひさたけちかなお)
長宗我部家臣。策謀や讒言で多くの同僚を自害に追い込み、主家滅亡の因を作った。兄・親信は主君・元親に「弟は必ず主家に仇をなす」と語っていたという。
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仙石権兵衛 (せんごくごんべえ)
豊臣家臣。淡路島平定の功により、淡路州本5万石を領す。九州征伐の先鋒を務めた際、戸次川合戦で島津軍に大敗し、領国を没収されるが、のちに帰参した。