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甑島に配流された!?川上忠克(かわかみただかつ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、島津氏の家臣である川上忠克(かわかみただかつ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
川上忠克の一生
川上忠克は永正4年(1507年)に川上栄久の子として誕生し島津氏の家臣となります。
兄・道堯が病身であったために家督を継ぎ、祖父の川上忠塞が土着してからの領地である串木野の30町を領し串木野城主となりました。
子に川上久朗がいる。
天文年間ごろに、川上忠克の娘が薩州島津氏の島津実久の継室でだったので実久に味方します。
しかし、実久が島津貴久と争って没落すると天文8年(1539年)8月、島津忠良に攻められ降伏します。
貴久にこのとき、甑島(こしきしま)列島に流刑に処されたが、3年後に罪を許されて家老となり島津貴久・義久に仕えました。
1609年(慶長14)に 猪熊侍従事件というもので松木宗信が甑島に流刑されているので、甑島は流刑先だったのかも知れません。
文禄元年(1592年)、死去。
信長の野望での川上忠克
ゲーム信長の野望での川上忠克のパラメーターを見てみましょう。
統率 50 (1331 位)
武勇 48 (1462 位)
知略 51 (1440 位)
内政 57 (939 位)
外政 54 (1104 位)
合計 260 (1317 位)
2200人中の順位です。
全体的に平凡です。
信長の野望を開発しているコーエーテクモさんは、このようなあまり活躍がなかった武将のパラメーターの設定に苦労されているのでしょう。
まとめ
いかがでした?
元々は島津の敵であった川上忠克の子の川上久朗は、のちに島津家で島津看経所四名臣になっています。
漫画にしたら面白いと思うのですが誰か題材にしないでしょうかね?
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
川上忠克