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主家に背き撃退した岩手の武将・亀ヶ森光広(かめがもりみつひろ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、稗貫家臣の亀ヶ森光広(かめがもりみつひろ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
亀ヶ森光広の略歴
亀ヶ森光広の生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1503年と設定されています。
亀現在の岩手県にあたる陸奥国稗貫郡を支配した豪族である稗貫氏の家臣で図書と称した。
亀ヶ森氏は稗貫氏の一族であるという。
陸奥国稗貫郡亀ヶ森城主。
天文9年(1540年)、八十沢氏が没落すると、その後は亀ヶ森光広が城主となります。
光広は翌天文10年(1541年)に八幡神社を、さらに翌天文11年(1542年)には菩提寺の中興寺を建立するなど、城下の整備を行います。
弘治3年(1557年)3月、光広は主家の稗貫氏に背きます。
これに対し稗貫氏当主である稗貫孫六郎為嗣は、家臣の槻木下総守光治と矢沢右近春眞に命じて光広を討つための軍を出すが、光広はこれをよく防ぎ、逆に槻木光治を討ち取って勝利を収めています。
この反乱の収束状況は定かでは無いが、この後も亀ヶ森氏がこの地を治めている。
亀ヶ森光広は1562年に亡くなり、その後亀ヶ森城の最後の城主である亀ヶ森玄蕃家衡は天正18年(1590年)、稗貫氏の没落とともに所領を没収されるが、当時絶世の美女と謳われ「稗貫御前」と呼ぼれていた於三の方(稗貫広忠の夫人)を南部信直のもとに輿入れさせ、稗貫氏の再興を図った。
しかし信直の死によって計画は頓挫するが、家衡は南部氏に仕えて旧領700石を与えられた。
信長の野望での亀ヶ森光広
ゲーム信長の野望での亀ヶ森光広のパラメーターを見てみましょう。
統率 52 (1226 位)
武勇 49 (1412 位)
知略 41 (1901 位)
内政 32 (2041 位)
外政 31 (2066 位)
合計 205 (2009 位)
2200人中の順位です。
知略・政治のパラメーターが壊滅的です。
主家に反発し、鎮圧されそうになった際にそれを撃退したので、もう少し統率・武勇は高くてもいいかもしれません。
まとめ
いかがでした?
東北の武将は資料が少ないので詳しい背景が分からないですが、信長の野望に登場させてもらって生まれて500年後の現在で記事にしてもらって喜んでくれていることではないでしょうか?
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。