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直江兼続と二頭体制を築いた狩野秀治(かのうひではる)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、上杉家臣・狩野秀治(かのうひではる)です。通称は新介。号は彦伯。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
狩野秀治の出自
越中国神保氏の旧臣・狩野秀基の子という。
生年はわかっていませんが、ゲーム信長の野望では1553年と設定されています。
はじめは出雲(島根県)の尼子勝久に仕えていたともいわれています。
父は越中の人なので、出雲まで修行でもしていたのでしょうか?
上杉家での活躍
天正初年(1573年)頃から越後上杉氏に仕え、御館の乱で上杉景勝方に与して頭角を現します。
天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きたことから、兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となりました。
以後、景勝の内政外交全般の取次ぎ役を担当するなど重用され、直江兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入りました。
天正10年(1582年)12月晦日、讃岐守の官位を与えられました。
しかし病気がちであり、天正12年(1584年)末から狩野秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取り次ぎのほとんどを担うようになります。
秀治の死後は単独執政を行い、これは兼続が死去まで続くことになりました。
景勝・兼続との仲
新潟県米沢市上杉博物館には上杉景勝・直江兼続と狩野秀治の三人の仲が分かる書状が残っています。
上杉景勝が狩野秀治に宛てた書状の内容が以下です。
『昨夜直江と大酒これをなし候、そこもと定めて家狭く候て、一入徒然たるべく候、』
(昨日の夜は、直江(兼続)と3人で大酒を飲みましたね。あなた(狩野秀治)の家はせまいから、(今日は)寂しく感じているのではないですか。)
景勝の署名もなく、自筆で書かれたと思われるこの書状からは景勝と兼続/a>と狩野秀治の仲の好さが感じられますね。
景勝はあまり感情を出さない武将という印象ですが、こんな書状を書いてたりしたのですね。
信長の野望での狩野秀治
ゲーム信長の野望での狩野秀治のパラメーターを見てみましょう。
統率 73 (268 位)
武勇 49 (1412 位)
知略 80 (138 位)
内政 82 (94 位)
外政 86 (55 位)
合計 370 (153 位)
2200人中の順位です。
全体的に数値が高いですね。特に景勝の内政外交全般を任されていたのでそのパラメーターが非常に高いです。
直江兼続がこんな感じ。
統率 84 (71 位)
武勇 77 (178 位)
知略 87 (49 位)
内政 93 (16 位)
外政 89 (34 位)
合計 430 (25 位)
さすが兼続です。
この二人が政治を行っていたので上杉家は盤石の大勢でした。
まとめ
いかがでした?
直江兼続と双璧を成した狩野秀治。
1600年の関ヶ原の戦い頃まで生きていたら上杉家はまた違った道を歩んでいたかもしれません。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。