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善政を敷き慕われた白河結城家臣の河東田清重(かとうだきよしげ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、白河結城家臣の河東田清重(かとうだきよしげ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
河東田清重の生まれ
河東田氏は白河結城氏の一族で、白河結城顕朝の次男・朝重の四代後の重継が河東田郷を領して河東田城(天王館・天王寺館)を築き、河東田氏を名乗ったことに始まるという。
河東田重治の子として1542年頃に生まれます。
陸奥河東田城
河東田清重は河東田城(天王館・天王寺館)の城主でした。
河東田城は築城年代は定かではないが戦国時代に河東田重継によって築かれたと云われます。
現在、この場所には白幡神社、奥に八坂神社(河東田牛頭天王祭を実施)が置かれており、参道西側が虎口、参道側が大手、北側が搦手であったと思われる。
結城家臣時代での活躍
天正4年(1576年)に佐竹氏に奪われていた赤館城を奪回するため、白河勢が最前線の河東田城に集結し、清重も佐藤忠秀に従いこの戦いで奮戦し夜襲をかけて赤館城の奪還に成功している。
しかし天正7年(1579)5月、佐竹は大軍で赤舘、天王館をはじめ近隣の諸域を攻略し、さらには白川城も攻略した。
また河東田清重は主君・結城義親の命で伊達家との交渉を任されます。
内政面では、領内に善政を敷いたので領民から慕われました。
主家の滅亡、そして伊達家に仕える
天正17年(1589年)、主君・白河義親が伊達家に降ると、河東田清重は佐竹氏への備えとして関和久城(伊賀館)の警護に当たります。
1590年に主家の白河結城家が豊臣秀吉により改易させられ滅亡します。この際に白河領は没収され河東田城(天王館)は廃城となりました。
結城義親と共に伊達政宗に仕え、直後に政宗から陸奥大里城の攻略を命じらました。
彼の子孫は代々仙台藩士となり、伊達政宗が支倉常長ら慶長使節団をヨーロッパに派遣することになると、清重の子・親顕が使節船サン・ファン・バウティスタ号の造船奉行に命じられている。
一族の河東田河内守とその子・備前守は佐竹氏に仕えています。
信長の野望での河東田清重
ゲーム信長の野望での河東田清重のパラメーターを見てみましょう。
統率 60 (792 位)
武勇 68 (436 位)
知略 54 (1264 位)
内政 66 (503 位)
外政 60 (784 位)
合計 308 (582 位)
2200人中の順位です。
可もなく不可もなしといったところです。
史実では武勇に優れていたという評価なので武勇パラメーターが比較的高い数値になっています。
まとめ
いかがでした?
結城家臣時代に伊達家との交渉にあたり、その後結城家が改易された際、伊達家に仕えることになります。
ヘッドハンティングでしょうか?
河東田清重が優秀で人格も良くないと雇ってくれないですね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。