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朝倉家臣として奉公職を務めた印牧美満(かねまきよしみつ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、朝倉家臣の印牧美満(かねまきよしみつ)です。
「印牧」で「かねまき」と読むのですね。ふむふむ。
福井県、北海道、東京都にこの苗字は多いようです。
福井県の印牧さんは、印牧美満一族と縁があるかもしれませんね。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
印牧美満の生まれ
越前国(福井県)の戦国大名朝倉氏の家臣である印牧美次の次男として誕生します。
生年は不明ですがゲーム信長の野望では1500年と設定されています。
京に近い越前の朝倉家を支える印牧家
越前国府・越前守護所の伝統を誇る府中の文芸の中心は朝倉氏の譜代府中奉行人の印牧氏で、朝倉孝景を補佐した印牧広次の子である印牧美次(美満の父)・宇野景久・印牧吉広の三兄弟らがいる。
二男の景久は戦陣に倒れたが、長男の美次は、和漢仏の三道を学び、連歌を好み、紫式部を慕い、『源氏物語』を愛読するなど「文武相和」の士として知られ、延徳三年に一乗谷逗留中の尭憲から『古今和歌集』を贈られ、明応八年には兼載を迎えて連歌会を張行したようです。
印牧家の家督を相続し奉行職に就く
美満の父の印牧美次が天文初年(天文3年以降)に没し、印牧美次の長男新右衛門尉(孝岳宗信居士)がその跡を継ぎ府中奉行となります。
新右衛門尉は孔子や孟子の仁道を行ない、『六韜三略』や王安石の兵書を学び、その筆跡はすばらしく「文武の丈夫」であったと伝わっています。
しかし、天文9年(1540年)に新右衛門尉が46歳で没したため、弟の美満が家督を相続し、奉行職も襲職します。
その後美満は天文21年(1552年)から永禄3年(1560年)まで府中奉行を務め、天文22年(1553年)には坂井郡の御前神社に棟別銭を課し、朝倉景連に敦賀郡の河野、今泉浦の百姓の通行の警備を要請しています。
また弘治元年(1555年)、病を患ったため一乗谷に帰陣した朝倉宗滴に代わって朝倉景隆が加賀一向一揆討伐のため加賀に進軍した際(加賀小松城の戦い)、美満も三百余騎を率いて従軍し、菅生村に在陣し補佐します。
信長の野望での印牧美満
ゲーム信長の野望での印牧美満のパラメーターを見てみましょう。
統率 52 (1226 位)
武勇 50 (1357 位)
知略 54 (1264 位)
内政 61 (731 位)
外政 57 (942 位)
合計 274 (1086 位)
2200人中の順位です。
奉公職を務めたので若干内政パラメーターが高く設定されています。
平均的な武将となっていますね。
もう少し内政は高くても良いかと思います。
まとめ
いかがでした?
伝統ある朝倉家で60歳の定年になるまで奉公職を務めた印牧美満。
63歳で亡くなってしまいます。
仕事を終え、自由な余生をもう少し過ごしてほしかったですね。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参考
印牧美満
第六章 中世後期の宗教と文化 第四節 戦国期の文芸
戦国越前国人名辞典
印牧(かねまき / いんまき)さんの由来と分布