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二階堂盛義(にかいどうもりよし)は何をした人?伊達阿南の旦那【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは戦国時代の福島県にいた武将・二階堂盛義(にかいどうもりよし)です。
何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
二階堂盛義の生まれ
二階堂照行の嫡男として生まれます。
生年は不明ですが、ゲーム信長の野望では1532年と設定されています。
二階堂氏は、鎌倉時代から須賀川城を居城として陸奥岩瀬郡を支配しており、二階堂盛義は須賀川二階堂氏7代当主となります。
勇猛果敢な大名というより能吏的・文化的な大名であったと伝えられています。
二階堂盛義の正室・伊達阿南(だておなみ)
夫婦仲は円満で、永禄4年(1561年)に長男・平四郎(後の蘆名盛隆)、元亀元年(1570年)に次男・二階堂行親を産みます。
二階堂家が攻められ、嫡男を差し出し臣従
永禄年間(1558 – 1570年)になると、会津四郡を支配する蘆名氏や、田村郡を支配する田村氏と所領をめぐって度々戦いを繰り広げていたが、永禄9年(1566年 二階堂盛義が34歳の頃)2月に蘆名盛氏・盛興父子によって松山・横田両城を攻め落とされ、横田城主が生け捕りにされてしまいます。
二階堂盛義は嫡男・二階堂盛隆を人質として差し出すことで蘆名盛氏に臣従し、以後は蘆名氏の旗下に入りました。
嫡男が蘆名家の当主となる
天正2年(1574年)6月、盛氏の後継・蘆名盛興が若くして亡くなったことで、人質の身であった盛隆が養子として蘆名家に入ることになり、元服し当主・蘆名盛隆となり蘆名氏を継ぎました。
これにより二階堂氏も蘆名氏の力を背景にして天正8年(1580年)の御代田合戦で田村氏との戦いに勝利し、勢力を拡大しました。
ただし、この合戦の際に負傷したらしく、9月には突然温泉療養に向かって重臣の須田盛秀と箭田野義正が指揮を代わっています。
天正9年(1581年)8月に二階堂盛義が死去。
続いて次男・行親も亡くなります。
その後、天正12年(1584年)10月に蘆名盛隆が暗殺され、盛隆の嫡男・蘆名亀王丸(かめおうまる。3歳)も相次いで亡くなります。
再び二階堂氏は衰退し、二階堂盛義の正室・伊達阿南は、女城主として所領の切り盛りし蘆名家の家督争いに巻き込まれていくことになります。
天正17年(1589年)10月26日に伊達政宗によって二階堂家は滅ぼされました。
ゲーム「信長の野望」での二階堂盛義
歴史シミュレーションゲーム「信長の野望 大志」では、武将の能力値合計が2200人中約1100位とド平凡です。
志が「家名存続」と二階堂家を存続させた点が反映されています。
シリーズ10作目の「信長の野望 蒼天録」の顔グラフィックが「目が異常に釣り上がり、口を大きく開け、まるで発狂しているかのごとし」と書かれるほどインパクトがあるもので、2ちゃんねるで大きく話題になったようです。
制作会社の株式会社コーエーも二階堂盛義の顔グラフィックをいじっており、PS2版「太閤立志伝V」のバストアップ画像に使用したり、説明書においては大砲に「ひょえー」と驚く台詞をつけたりしている。像に使用する程で、説明書においては大砲に「ひょえー」と驚く台詞をつけてネタキャラとして存分に利用されています。
まとめ
いかがでしたか?
パッとしない武勇伝・パッとしない能力値、パッとしない経歴、しかし顔グラフィックのインパクトで一時期話題をかっさらったこともありました。
最新作では、どのような顔グラフィックになるのでしょうか。期待ですね。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!