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秦泉寺泰惟(じんぜんじやすこれ)は何をした人?長宗我部元親の才能を開花させた人【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは戦国時代の高知県の武将・秦泉寺泰惟(じんぜんじやすこれ)です。
秦泉寺豊後ともいう。
何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
秦泉寺泰惟の生まれ
長宗我部家臣の秦泉寺掃部の子として生まれます。
秦泉寺氏は土佐の小豪族の一つで、戦国時代は本山氏の傘下にあったが、泰惟の父の掃部の代に長宗我部国親に降伏し、その配下となっていました。
生年は不明ですが、ゲーム「信長の野望」では1511年と設定されています。
土佐の出来人・長宗我部元親に槍の使い方を教示したとあり、長宗我部元親は1539年生まれなので、大体合っているでしょう。
長宗我部元親の初陣をサポート
永禄三年(1560年 秦泉寺泰惟が49歳の頃)、長宗我部元親の初陣となった長浜の戦いが起こります。
長浜の戦いは、元親の父・長宗我部国親が仇敵の本山氏などに娘を嫁がせ、香宗我部氏に三男・長宗我部親泰を養子に出して勢力下に置くなど、勢力を拡大していく中で行なった戦いでした。
元親は背が高く、色白で、柔和な性格だったので、武将としては使い物にならないだろうという嘲笑の意味を込めて「姫若子」(ひめわこ)と呼ばれていました。
そのことについて父親である国親も頭を痛めていたようです。
15歳で初陣するのが一般的でしたが、元親は22歳と遅く、弟の長宗我部親貞(のちの吉良親貞)と同じ戦で初陣になっています。
『元親記』によると、この戦いで秦泉寺泰惟は長宗我部元親に槍の使い方を教えました。
このとき「とにかく敵の眼を突け」とコツを伝えています。
また、信親から「大将としてどういう行動を選択すべきか」という問いについては、「大将は先を駆けず、また臆病風に吹かれて逃げることもしないものだ」と教えました。
アドバイスの甲斐があったのか、長宗我部元親は五十騎を率いて敵の本山勢に襲いかかり、元親自身敵兵2人を槍で倒す戦功を挙げました。
本山軍の半分の1千の軍勢といわれ、数的不利であった長宗我部勢は、乱戦の末に本山軍を押し返して浦戸へ退却させて勝利したといいます。
さらに元親は本山の支城・潮江城にも突入し、無人となっていた城を難なく攻略。
一方で敵将の本山茂辰は、浦戸から脱出して朝倉城へと逃げ帰っています。
この戦いにおいて、当時土佐で最大の勢力を誇っていた本山氏に勝利。
この元親の活躍ぶりは、父の国親だけでなく、家臣らも驚かせたようです。
獅子奮迅の活躍を見せた長宗我部元親は「鬼若子」(おにわこ)と称されるようになりました。
姫から鬼に変わった瞬間です。
しかも元親はこの後の潮江城攻めでも戦果をあげてその武名を土佐国中に轟かせました。
長宗我部元親の代で最大版図を築き、土佐だけでなく四国全域を手中に収めるのですが、元親が表舞台に立った初めての戦がこの長浜の戦いでした。
百姓同士の争いを起こしてしまい誅殺される
秦泉寺の農民と土佐郡一宮の郷民との間に争いが起こり、一宮の郷民が殺されてしまいます。
一宮の神職は農民の引き渡しを求めたが、秦泉寺泰惟はこれを拒否したため元親は怒り、元親の命令を受けた中島親吉に父子共に謀殺されました。
ゲーム「信長の野望」での秦泉寺泰惟
ゲーム「信長の野望 大志」では、武勇・知略というパラメーターが高く設定されています。
武将ごとに気質という武将同士の相性に影響するパラメーターが設定されていますが、秦泉寺泰惟は「才覚」が設定されています。
元親の才覚を見出した点が参考になっているのでしょうね。
気質一覧
- 勲功
- 家名
- 才覚
- 実利
- 仁義
- 大志
- 芸道
- 野心
まとめ
いかがでしたか?
長宗我部元親の初陣で槍の使い方を教授し、才能を開花させた秦泉寺泰惟。
晩年は元親の命令で謀殺されたので、「槍の使い方くらい知ってるわ、こいつうるせーな」とか思っていたのかもしれませんね。
著者はひねくれた性格なのでそんな解釈をしてしまう時があります。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!