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正木時茂(まさきときしげ)は何をした人?「槍大膳」の異名を持つ男【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは正木時茂(まさきときしげ)です。
意外と知られていないが、当時はあの信長と並ぶほどと評価された人物です。
何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
里見家臣。大多喜城主。槍に長じ「槍大膳」の異名をとった。2度の国府台合戦をはじめとする里見家の合戦にはほとんど参陣し、勇名を近隣諸国に轟かせた。
正木時茂の生まれ
1513年(永正10年)、正木時綱の次男として誕生します。
正木時綱は上総国・安房国(千葉県)を治めている里見氏の家臣でした。
1533年(天文2年 正木時茂が20歳の頃)里見氏の内紛である稲村の変が発生した際、父と兄が謀反の疑いをかけられ主君・里見義豊に討たれます。
この時、時茂は傷を負いながらも命からがら脱出したと言われています。
父と兄が亡くなったため正木時茂は家督を相続することになりました。
主君・里見義豊に仇討ち
1534年(天文3年 正木時茂が21歳の頃)正木時茂の父・兄を殺した主君・里見義豊は義豊の叔父の里見実堯も殺害します。実堯の遺児であった義堯と正木時茂、共に親を殺された同士が手を組み、北条氏の支援を受けて挙兵し義豊を攻撃する里見義豊討伐が起こります。
正木時茂は弟の時忠と共に上総金谷城において挙兵します。
初戦は里見義豊に押されて義尭・時茂勢は造海城に籠城しますが、義尭は宿敵でもある北条氏綱に援軍を求めると氏綱はこれを了承し援軍を送ります。
援軍を得た義尭・時茂勢は城から打って出て妙本寺付近の合戦で義豊軍を破り、敗れた義豊は滝田城に撤退したが義堯・時茂勢は攻勢の手をゆるめず滝田城を攻略します。
義豊は真里谷城の武田信保を頼って上総に落ち延び、上総の援兵を得て体制を立て直すと再び進撃を開始します。
里見義尭・正木兄弟・北条の連合軍と里見義豊軍は犬掛の地にて激突。
両軍入り乱れての激戦となりましたが戦いは連合軍の勝利に終わり、里見義豊は敗走の際に討死。
この戦い(犬掛の戦い)に勝利した義堯が名実共に里見家第5代当主となり安房本国に入った為に、それまで居城としていた上総国金谷城は代わりに正木時茂が城主となりました。
槍大膳
1535年(天文4年 正木時茂が22歳の頃)北条氏綱が扇谷上杉家と戦った際には北条方の援軍として派遣されています。
その後、里見氏と北条氏の関係が対立関係に転じ、1538年(天文7年 正木時茂が25歳の頃)の第一次国府台合戦には里見方として参陣します。
里見家幕下の有力武将として各地を転戦する時茂の剛勇は各地にその名を轟か「槍大膳」と称されました。
特にその槍使いは目を見張るものであったと言います。
時茂の槍さばきに関するエピソードとして里見義堯が北条氏康と対峙した際のことです。
撤退の際に殿を任された時茂は馬上で片手綱のまま敵を十数人刺殺し、そのまま悠々と引き上げたというものがあります。
このような活躍から敵である北条氏康から「正木を始め八州の弓取り」と評されるほどでした。
またこの時「大膳」を名乗る武将は時茂以外にも数人いたそうですが、この時流行した詩には「依田の大膳、銭大膳。矢田の大膳、逃げ大膳。正木の大膳、槍大膳。」と謳われ槍さばきを賞賛されています。
上総東部を制する大領主へ
一族である内房正木氏の北条方への離反や上総武田氏勢力の衰退という状況を受けて、金谷城がある西上総から安房国朝夷郡に本拠を移した後に東上総へ進出し1542年(天文11年 正木時茂が29歳の頃)には勝浦城を攻めてこれを奪っています。
1544年(天文13年 正木時茂31歳の頃)には真里谷朝信を討ち、上総小田喜の武田氏が滅びると、その所領である小田喜城(後の大多喜城)を奪って居城とし、上総東部を制する大領主として成長しました。
その後、1561年初頭の上杉謙信の関東出陣に際しては、義堯の嫡男・里見義弘に従って嫡男の信茂とともに参陣しています。
里見義尭・義弘に従う形で里見氏の活動を支え、永禄3(1560)年には北条氏の上総侵入を防ぎつつ、里見氏を代表して越後の上杉謙信と通じてその出兵を要請しました。
正木時茂の最後
1561年(永禄4年)謙信の小田原攻めに参加しているが、のち4月6日、死去。
これまでは没年は元亀末から天正初年、天正4年(1576年)、あるいは天正6年(1578年)とされてきたが、近年里見氏・正木氏ゆかりの寺院である妙音院(高野山妙音院里見家過去帳)や慈恩院(正木一家法名)から、時茂の命日を示す資料が見つかった。
これによると、以後の時茂の功績とされるものや「正木大膳(亮)」の名乗ったのは第二次国府台合戦で戦死した嫡男・信茂や後に里見氏に反乱した養子・正木憲時であったとされている。
安房国長狭郡宮山(現在の千葉県鴨川市)の長安寺に葬られた。法号は長安寺殿武山正文または松徹主順。
正木時茂の評価
越前の朝倉宗滴が語った言葉をまとめたとされる『朝倉宗滴話記』には、同時代の優秀な武将が列挙されているが、その中に「正木大膳亮」の名も挙げられている、「日本に国持人使の上手よき手本と可申仁は、今川殿、甲斐武田殿、三好修理大夫殿、長尾殿、安芸毛利、織田上総介方、関東正木大膳亮方、此等の事」。
また、甲斐(山梨県)の武田氏が記した軍学書『甲陽軍鑑』では4大将(北条氏康・武田信玄・上杉謙信・織田信長)に次ぐ「名高き大将衆」13人に「安房里見家・柾木大膳(正木時茂)」として挙げられています。
ゲーム「信長の野望」での正木時茂
ゲーム「信長の野望 大志」では、戦闘面の能力値が非常に高く設定されています。
統率力が2200人中約200位、武勇が60位と槍大膳の名に恥じぬ高さですね。
まとめ
いかがでしたか?
「槍大膳」と評され、当時の武将から高く評価された正木時茂。
あまり正木時茂の名を聞かないので現代ではマイナー武将ですが、当時は今川義元・武田信玄・織田信長などと同レベルの評価とは…
すごすぎる。
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!