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後藤信康(ごとうのぶやす)は何をした人?「黄後藤」の異名を持つ男【伊達家臣二十四将】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは伊達家臣・後藤信康(ごとうのぶやす)です。
一体何をした人なんでしょうね。
それでは見ていきましょう!
目次[非表示]
伊達家臣。湯目重弘の子で、後藤家を継ぐ。檜原城を守り、蘆名家に備えた。知勇に秀で、合戦では必ず黄色の母衣を用いたため「黄後藤」の異名をとった。
伊達家臣二十四将
後藤信康は伊達家臣二十四将の一人です。
- 亘理兵庫元安
- 伊達藤五郎成実
- 片倉小十郎景綱
- 鬼庭良直入道左月
- 留主上野政景
- 大條薩摩実頼
- 伊藤肥前重信
- 後藤孫兵衛信康
- 原田左馬之助宗時
- 中村八郎右衛門盛時
- 白石若狭宗実
- 大町三河■■(※おそらく定頼)
- 斉藤外記永門
- 小梁川泥蟠斎
- 泉田安藝重光
- 黒木肥前■■(※宗俊か宗元)
- 遠藤文七郎宗信
- 石田将監與純
- 小山田筑前定頼
- 津田豊前景康
- 小田邊勝成
- 石母田大膳宗頼
- 富塚小平治宗総
- 石川弥平実光
後藤信康の生まれ
弘治2年(1556年)、伊達家臣で、湯目景康で有名な湯目家の分家にあたる湯目重弘(重信、雅樂允とも)の二男として生まれます。
湯目重弘は長井郡洲島城主でここで生まれます。はじめ孫兵衛と称します。
同世代の伊達家臣としては、一つ上に鈴木元信、ひとつ下に片倉小十郎がおり、伊達政宗と比べると10歳年上になります。
跡取りのいなかった後藤信家の養嗣子となって後藤氏の家督を相続します。この時に後藤性を名乗ります。
taka
優秀な次男三男はよく養子にいきますよね。
初陣
天正10年(1582年 後藤信康が26歳の頃)かねてより伊具郡の領有をめぐって争っていた相馬義胤との戦に伊達輝宗に従い出陣し、これが初陣となります。
26歳で初陣は当時の武将としては遅め。
信康は政宗の麾下に入っていたと伝わっており、このときに後に檜原城主を任せられるだけの信頼を勝ち取ったとものと思われます。
伊達政宗の下で働く
天正13年(1585年 後藤信康が29歳の頃)5月、前年に家督を継いだばかりの伊達政宗が、突如蘆名氏との同盟を破棄して会津に侵攻します(関柴合戦)。
信康は旗奉行として従軍しました。
この戦いで伊達勢は蘆名の本拠地である会津まで攻め入ることはできず、侵攻先を仙道(現在の福島県中通り)方面へと転じることになります。
一方、会津方面への攻守のかなめとなる土地・耶麻郡檜原には新しく城を築いて、これを後藤信康に守らせることにしました。
檜原は、伊達の本拠地・米沢と蘆名の本拠地・会津との間の最短の峠道です。
政宗の南下作戦は今後仙道方面が主戦場となったため、信康は最前線からは退き、地味な任務につくかたちになっていました。
あまりに退屈なので政宗に対して城主の任を解いて戦場に赴かせてほしいと訴えましたが、この嘆願を拒否されたため、悲観した信康は戦支度を整えたのち愛馬・五島の背に跨り、諸共崖下へ身を投げたという説話がありました。
結構守備より攻撃が好きな人です。
大坂の陣でも同じことを言っています。
蘆名氏の滅亡までの4年間、檜原城代としての役目を担うことになるが、桧原在番の間には、信康をねぎらう政宗の書状が何度かきていたり、政宗の正室愛姫より慰労の品として打掛を賜っています。
親友の原田宗時
原田宗時(伊達家臣二十四将の一人)は、年少ながら武勇絶倫で知られていました。
信康に関柴合戦での不始末を非難されたことに腹を立てた原田宗時は、信康に決闘を望みました。
幼少から後藤信康も勇猛と知られていたので、ライバル関係だったのかもしれません。
決闘を申し込まれるも後藤信康は悠遊と囲碁を続け、対局が終わったのち、落ち着いた様子で語りました。
「おぬしの申すこと、いちいち心当たりがある。決闘するのは構わないが戦国の世にあっておぬしのような勇猛な士を失うのは惜しいし、私もそのようなことで死ぬのは御免である。国のために忠戦して戦場で死ぬべきであって、私憤で命を捨てるべきではない」
この信康の態度に感服した宗時は信康に謝り、以後彼を尊敬し、両者は刎頚(ふんけい)の交わりを結んだという説話があります。
※刎頚の交わり・・・お互いに首を斬られても後悔しないような仲
親友原田宗時の誕生です。
黄後藤・後藤信康
この檜原城代のころ後藤信康の武勇は敵方にも知れ渡っていたらしく、「性 沈勇果敢にして知略あり 国のために力を尽くし いささかも私心なし」とも称されています。
戦うごとに先鋒を、退くごとに殿を務め、その武勇から「甲州武田の高坂弾正(武田信玄配下の四天王のひとり高坂昌信)の再来」と敵兵から恐れられ、城の近くに近づく者はいなかったようです。
高坂昌信はあの上杉謙信の武田領侵攻を抑え続けた名将であることから信康を彼に比する言説が生じたのだと思われます。
常に黄色の母衣(ほろ)をつけて戦いに赴いたため、「黄後藤」と称されて恐れられていました。
信長の野望でも武勇の数値が75と上位10%で高く評価されています。
耶麻郡北方城主となる
天正15年(1587 後藤信康が31歳の頃)には、蘆名(あしな)氏に対して寡兵で会津檜原(ひのはら)を守り切りました。
天正17年(1589年 後藤信康が33歳の頃)、政宗が摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、耶麻郡北方城主となります。
摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡すると、会津北方の備えとして喜多方地方の所領を新しく賜まりました。
天正18年(1590 後藤信康が34歳の頃)、葛西・大崎一揆が発生すると、信康も従軍して一揆鎮圧に出陣しました。
天正19年(1591 後藤信康が35歳の頃)の宮崎城の戦いでは、後藤信康と親友原田宗時の以下のようなエピソードが伝わっています。
二人はいつも先陣を競い合っていたのだが、後藤信康が夜にこっそり抜け出して城に忍び入って石壁に取りつくと「えらい早駆けじゃのう」という声がする。
みてみると信康よりも先に忍び込んでいた原田宗時が城門の柱にしがみついていた。
城門から敵が攻めてきたが、二人は隠れて城内にとどまった。
敵の攻撃がやんで城内に戻ると、二人は城門を開け放って味方を招き入れ、そのまま城は大混乱になったという。
※一説によれば、後に改易となるのはこのときの抜け駆け行為が原因だといわれています
政宗が前年の奥州仕置で米沢から岩出山に移封になると、会津も没収されてしまったため、亘理郡坂元城主に異動となります。
この坂元城も対相馬方面防衛の要となる城でした。
重要な拠点の城主を任されていますね!
同年の葛西大崎一揆鎮圧戦(佐沼の役)では、佐沼城攻めにおいて勇将山上内膳を一騎打ちで倒し活躍しました。
文禄元年(1592年 後藤信康が36歳の頃)からの朝鮮出兵においては政宗に従って渡海しました。
この文禄の役のさなか、朋友である原田宗時が風土病にて没しています。
慶長5年(1600年 後藤信康が44歳の頃)の関ヶ原の戦いに連動した上杉との戦い白石城攻略戦で活躍し、同年栗原郡宮沢城主となりました。
慶長6年(1601 後藤信康が45歳の頃)1月11日には、仙台城築城に際して川島宗泰と共に普請の築城惣奉行に任命されています。
仙台城はこの前年の慶長5年(1600)12月24日、政宗自ら縄張りはじめを行い、翌慶長6年(1601)正月11日から着工、慶長7年(1602)7月18日には一応完成して8月8日に政宗が仙台城入りしました。
関ヶ原の戦いの後、政宗は居城を岩出山から仙台へと移し、仙台藩が成立します。
信康は栗原郡 宮沢邑主(宮沢城主)となりました。
宮沢には、延長約4000メートルの「後藤江」なる用水路があり、『小牛田町史』ではこの「後藤江」が後藤信康、あるいはその義弟という説がある後藤寿庵による建設・設計である可能性について触れられています。
慶長7年(1602年 後藤信康が46歳の頃)には桃生郡大森城主となって2,500石を知行しました。
ところが、慶長10年(1605年 後藤信康が49歳の頃)に政宗の勘気をこうむり、突如として改易されます。
改易の理由として、軍法違反を犯した(葛西大崎一揆の際の宮崎城攻めでの抜け駆け)ためであるという説があるが、これは15年も前のことである上に、この話自体に他の史料的な裏付けがないことから、『小牛田町史』ではこの説を否定しています。
慶長16年(1611年 後藤信康が55歳の頃)にようやく赦免されて復帰し、江刺郡三照に500石を与えられ復帰しました。
さらに遠田郡 不動堂村にも226石をあてがわれましたが、以前の2500石と比べれば大幅な減俸になります。
慶長19年(1614年)8月8日、死去。享年59。
嫡男・近元が家督を相続しました。
大坂の陣では、出陣を政宗にまたもや直訴したが叶えられず、悔しさのあまり愛馬とともに自害したという伝承も残っています。
近元の代に加増され、2000石まで復帰。
さらに不動堂要害を賜る。
後藤家は仙台藩において「宿老」の家格を与えられ、奉行を何人も輩出しています。
まとめ
いかがでしたか?
戦場では常に黄色の母衣をつけ「黄後藤」の異名のとった後藤信康。
こういったマイナーな武将を知っていくと、思わぬ人物と関連があったり、よく知っている土地と深い関係だったり新しい発見があって面白いですね!
それでは、今後もマイナー武将列伝をアップしていくのでよろしくお願いします!