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出羽の大名で家臣に暗殺された小野寺稙道(おのでらたねみち)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、小野寺家12代当主である小野寺稙道(おのでらたねみち)です。史料によっては輝道とも。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
小野寺稙道の一生
長享元年(1487年)、出羽国(山形県と秋田県)の大名である小野寺泰道の嫡男として誕生。
幼名は竜保丸で、当初は義尹を名乗った。
生年については父・泰道の没年が1477年ごろのため諸説ある。
従五位下に叙任されます。
従五位よりも上位になると貴族とみなされ、天皇の日常生活の場である清涼殿に上がることができるので、立派な官職についていたということです。
はじめ、上洛して室町幕府足利将軍家に仕え、永正14年(1517年)頃に第10代将軍・足利義稙から偏諱を賜って稙道と名乗る。
続いて足利義晴に仕えるも、父の泰道が死去したために帰国して家督を継ぎ小野寺氏の第12代当主となった。
父が国内の政治を行い、子の稙道が中央政権で勉強させ人脈も広げさせていたが、父が亡くなり自国に帰らないといけなくなったのですね。
出羽国の横手盆地を中心として勢力を拡大していきます。
湯沢城を拠点に、稲庭・川連・三梨・東福寺・西馬音内・山田・田代・高寺など雄勝郡内の各郷に一族を惣領制的に置き、稲庭城主に嗣子を送りこむなど当主の立場を強化した。
そして、「山北屋形」ないし「京都扶持衆」の立場で山北三郡・由利郡内の国人たちに対しては使節遵行を行使して、さらに平鹿郡沼館城を足場として南は村山郡鮭延城(現在の最上郡真室川町)から北は雄物川下流の豊島郡(現在の河辺郡)までを配下に加えた。
出羽の有力豪族の六郷・本堂・戸沢らに自らの偏諱をあたえて関係を深め、さらに横手城に本拠をうつそうとした。
天文15年5月27日(1546年6月25日)、金沢八幡の別当である金乗坊と横手城主・大和田光盛ら家臣団の権力闘争に巻き込まれ、家臣により湯沢城に追い詰められて暗殺された(平城の乱)。
跡は四男の輝道(景道)が継いだ。
信長の野望での小野寺稙道
ゲーム信長の野望での小野寺稙道のパラメーターを見てみましょう。
統率 58 (898 位)
武勇 52 (1243 位)
知略 57 (1091 位)
内政 72 (300 位)
外政 65 (550 位)
合計 304 (635 位)
2200人中の順位です。
従五位下の官位をもらっていただけあり、政治方面のパラメーターが高いですね。
まとめ
いかがでしたか?
小野寺稙道は10代将軍・足利義稙から偏諱を賜り、後を継いだ輝道も第13代将軍・足利義輝から偏諱を賜っているので、出羽では最有力の大名としての地位があったのですが、家臣団の権力争いに巻き込まれ暗殺されてしまいました。
戦国乱世の中で家臣に討たれるようではそこまでということです。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。