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南部信直を擁立に貢献し右腕として南部家を支えた北信愛(きたのぶちか)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、南部氏の家臣である北信愛(きたのぶちか)です、別名松斎。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
北信愛の生まれ
大永3年(1523年)、北致愛の嫡男として誕生します。
北致愛は南部氏21代・南部信義の嫡男として誕生するも、八戸信長により家督を継げず母方の北家を継いだ人間でした。
天文9年(1540年)、父・致愛が亡くなったため北家の家督を継ぎます。
南部家の家督争いで信直を擁立
左・北信愛、右・南部信直
南部家の家督争いである「屋裏の変」では、主の南部晴政と対立し、田子信直(後の南部信直)を保護します。
南部晴政が隠居し子・晴継が家督を継ぐと、これを補佐し、元服時には烏帽子親として加冠の儀を執り行っています。
烏帽子親とは、元服時に親に代わって烏帽子をかぶらせる人なので、信頼され南部家において重要な人だったことは間違いありません。
その後晴継が亡くなると北信愛は「田子九郎信直は晴政の従兄弟、かつ晴継の大姉婿なり。その器量、また他に勝る。まさに家督に立つべき者なり」と発言し信直の擁立に尽力。
以降信直の右腕として内政や外交面で活躍していきます。
秀吉政権下で南部家を舵きりする
南部信直
秀吉政権下では、主君の信直に秀吉からの信任が厚い前田利家と交流するよう進言し、天正15年(1587年)には加賀国の前田利家を訪ねて鷹を献上し、豊臣秀吉に臣従する意思を示している。
天正19年(1591年)の九戸政実の乱においても、上洛して秀吉に援軍を要請しました。
翌慶長4年(1599年)、南部信直が没すると自身も隠居しようとしたが、後を継いだ南部利直は許さず、なおも側近として重用された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して花巻城を守備。
慶長18年(1613年)、死去。享年91。
信長の野望での北信愛
ゲーム信長の野望での北信愛のパラメーターを見てみましょう。
統率 76 (194 位)
武勇 57 (973 位)
知略 67 (552 位)
内政 81 (108 位)
外政 74 (238 位)
合計 355 (210 位)
2200人中の順位です。
マイナー武将の中ではかなりパラメーターが高く、上位10%です。
南部家臣として中央政権と渡り合った経歴がしっかり反映されていますね。
まとめ
いかがでしたか?
実はマイナー武将かメジャー武将かちょっと迷いましたが、あまり知っている人がいないだろうと思いマイナーにさせていただきました。
南部家の最盛期を支えた立派な武将でした。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。