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北楯大堰を造り石高を10倍にした北楯利長(きただてとしなが)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、最上氏の家臣である北楯利長(きただてとしなが)、別名北楯大学助です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
北楯利長の生まれ
北楯利長は最上義光の家臣で、天文17年(1548年)に生まれます。
最上義光の2歳下ですね。
慶長6年(1601年)、義光が上杉景勝を破って庄内3郡を奪還すると、田川郡狩川城主として3,000石を与えられた。
北楯大堰
北楯利長の所領である狩川・清川・立谷沢などの地域は水捌けが悪く、灌漑による整備が急務であった。
そのため利長は、10年にわたる新田開発調査を経て慶長16年(1611年)、義光に立谷沢川の水を田川郡北辺の平野部に引く疏水の建設を願い出た。
難工事が予想されたため反対意見も多かったが、新関久正らの強い勧めもあって、翌慶長17年(1612年)3月、義光は利長に着工を命じ、工事に関する指揮権を与えた。
このとき庄内一円から集められた人夫は7,400名に及んだ。
わずか4ヶ月で約10キロの水路を完成させたと伝わり、その後、延長工事を行い、総延長32km堰が完成すると、義光は「庄内末世の重宝を致し置き候」とその功績を絶賛し、利長に300石を加増した上で、今後この疏水を利用して開拓される新田が何万石に達しようと、全て利長の知行として取らせるという証書を下した。
堰が完成した結果、新たに約5,000ha(東京ドーム約1100個分)が開かれて88の部落が興り、石高は当初の10倍の30,000石となった。
新田は米どころ庄内の礎となり、水路は今日も庄内平野の水田を潤している。
また水路開削に尽力した北楯利長は、その功績を讃えられ、狩川駅から徒歩10分の地に水神として北舘神社に祀られ、水路は利長の名を取って北楯大堰(きただておおぜき)と名付けられた。
2018年8月14日、農林水産省は北楯大堰が国際かんがい排水委員会によって、歴史的価値のある農業用水利施設を登録する「かんがい施設遺産」に選出されたと発表した。県内では初の選出となる。
北楯利長の最後
元和元年(1615年)一国一城令によって狩川城は廃城となり、北楯利長は麓の下屋敷へ移り住んだ。
元和8年(1622年)、最上氏が改易されると利長も所領を失うが、子・助次郎(正久)が、庄内に入封した新領主・酒井忠勝に召し抱えられ、姓を北楯に改めて300石で仕え、隠居した利長には100石を給された。
寛永2年(1625年)10月20日、死去。享年78。
安永7年(1778年)には、水神社が建立され利長は北楯水神として祀られ、大正4年(1915年)に従五位が追贈された。
大正8年(1919年)に神社は狩川城趾に設けられた楯山公園に移され、北舘神社となる。
同公園には利長の像が建つ。
信長の野望での北楯利長
ゲーム信長の野望での北楯利長のパラメーターを見てみましょう。
統率 28 (2125 位)
武勇 29 (2120 位)
知略 62 (805 位)
内政 89 (34 位)
外政 74 (238 位)
合計 282 (970 位)
2200人中の順位です。
さすが内政パラメーターが非常に高いですね。
豊臣五奉行の前田玄以も内政が89なのでそのくらい高いということです。
まとめ
いかがでしたか?
こういう人物こそ皆さんに知ってもらいたいですね。
便利になった現代ですが、北楯利長のような人物が積み上げてくれたから今があるということを忘れないでおこうと思いました。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
北楯利長