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左京大夫という京職を持つやさしいおっちゃん・木曾義在(きそよしあり)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、信濃木曾谷の豪族である木曾義在(きそよしあり)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
木曾義在の生まれ
木曾義在の肖像画
木曾義在は信濃木曾谷の豪族です。
生年は不明ですがゲーム信長の野望では1493年と設定されている。
父の義元は永正元年(1504年)7月に飛騨国の三木氏が木曽侵攻を行った際に戦死したといわれ、その時義在は12歳であった。
そのため叔父の黒川三郎義勝が後見となって政務をとった。
木曽の諸士は甲州そのほかに出かけて奉公したという。
永正6年(1509年)、叔父の義勝の勧めにより松尾小笠原氏当主・小笠原定基の娘を娶った。
17歳になった義在は五霊の山に山城を築き、永正10年(1513年)に将軍足利義稙が六角高頼を討つため近江に出陣したときは、義在も曇郡の領主仁科明盛と共に出陣し近江国醒ケ井で戦ったという。
左京大夫に任命される
大永7年(1527年)には小笠原氏と共に上洛し、左京大夫に任官する。
戦国時代の左京大夫というと、以下の面子がいるのでこれに肩並べる木曾義在も強いに違いありません。
- 大内政弘(1468年)
- 赤松政則
- 一色義春
- 一色義直
- 岩城親隆
- 土岐成頼
- 大崎義兼
- 一色義有
- 吉良持清(1509年以前)
- 大内義興(1508年)
- 伊達稙宗(1517年)
- 寒河江孝広(1517年)
- 土岐頼芸
- 一色義幸
- 畠山長経
- 武田信虎(1521年)
- 木曾義在(1527年)
- 北条氏綱(1530年)
- 大内義隆(1530年)
- 五辻諸仲(1534年)
- 六角義賢(1539年)
- 赤松政村(1539年)
- 赤松晴政
- 岩城重隆(1541年)
- 大宝寺晴時(1541年)
- 結城晴広(1542年)
- 大崎義直(1545年)
- 大内義長(1553年)
- 伊達晴宗(1555年)
- 北条氏康
- 伊東義益
- 一色義道
- 斎藤義龍(1561年)
- 河野通宣(1562年頃)
- 三好義継(1565年)
- 伊達輝宗
- 徳川家康(1568年)
内政に努める
義在は木曽山脈に挟まれる細長い谷底平野に木曽川が流れる木曽谷の道路改修にも乗り出し、天文二年(1533)には、妻籠から新洗馬までの宿駅を定めた。
さらに、美濃国落合から塩尻に抜ける木曽の本道を開いて整備士木曽を通過する旅人を増やし、各宿に人家を寄せ集め馬籠から新洗馬までの宿駅を定め、後の木曽十一宿の原型をつくったという。
現在でも宿場町として観光の名所になっています。
また、木曽谷の有り余る材木を美濃に輸出して経済力を高めていった。
その後義在は飛騨の三木氏とは修好関係を築き、いたずらに木曽谷から外に向けての所領拡大を図ることなく、内政の充実と、安定に富んだ政治状況を木曽谷全域に築いたといわれる。
天文十一年(1542)、内政重施策をとった義在から家督を相続した子の義康は、家督を継承する以前より父義在とはかって、遠山元忠・千村重綱を林城の小笠原長時のもとに遣わして盟約を結び、諏訪の諏訪氏とも友好関係を築きあげ、木曽氏は北信の村上義清、小笠原・諏訪氏と並んで信濃四大将と称されるまでの勢力に成長したのである。
義在自身は黒川口松島に隠居するが、隠居後にも政務に関与している文書が見られる。
義在は定勝寺所蔵画像讃文によれば永禄元年(1558年)に死去しており長期の在任が想定されているが、義在期の発給文書は少ない。
信長の野望での木曾義在
ゲーム信長の野望での木曾義在のパラメーターを見てみましょう。
統率 45 (1580 位)
武勇 47 (1513 位)
知略 74 (282 位)
内政 76 (198 位)
外政 76 (192 位)
合計 318 (483 位)
2200人中の順位です。
戦闘面のパラメーターは低いですが、知略・政治面は高いですね。
内政重視の政策を取り、外交面での活躍もあるので真っ当な評価です。
まとめ
いかがでしたか?
温和な人は結構いると思いますが、温和な性格と現代まで伝えれるってことは相当やさしい人だったのでしょうね。
この人が上司になって欲しいな。
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。