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日本一小さな東照宮を建立した徳川家臣・伊奈忠政(いなただまさ)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、徳川家の家臣である伊奈忠政(いなただまさ)です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
伊奈忠政の生まれ
天正13年(1585年)、徳川氏の家臣である伊奈忠次の嫡男として誕生します。
父・忠次は江戸周辺の天領の代官頭として治水事業や用排水路の整備で功績があった人物でした。
父に従い忠政も徳川家康の下で奉行職に就き活躍していきます。
治水工事での実績
利根川筋では会の川を1594(文禄3)年に締め切り利根川を統合して埼玉県平野東方へ移し、最終的には利根川を銚子へ導く利根川東遷事業に着手しました。
荒川筋では荒川六堰のうち五堰を設け、熊谷扇状地に広がる水田地帯を開発しました。
五丁台(桶川市)で綾瀬川を備前堤で締め切り、荒川旧流路を現元荒川に統合し、末流を瓦曽根溜井に導き、埼玉県東南部を開発。
現荒川筋ではさいたま市土屋地先に土屋古堤を築き、既にあったと見られる堤を修築して千住(足立区)までの大囲堤にしました。
家康が江戸に入ると父と共に検地や新田開発、河川改修に携わり、慶長15年(1610年)に父・忠次が死去すると、遺領を相続し代官の頭領である関東代官職を継ぎました。
戦場での活躍
関ヶ原の戦いやその前哨戦である会津征伐などに従軍し、主に兵糧や武具などを輸送する小荷駄奉行などの後方支援などに従事したようである。
大阪冬の陣では外堀を埋め立てる際に普請奉行を務め、長柄川を堰き止める作業などに才を発揮、また夏の陣では首級を30挙げるなど活躍しました。
伊奈忠政の最後
慶長17年(1612年)、家康の命を受け、船橋御殿(千葉県船橋市)の跡地に「日本一小さな東照宮」として知られる船橋東照宮を建立しています。
元和4年(1618年)、34歳と若くして亡くなる。
所領と家督は8歳の嫡男・忠勝が継ぎ、関東代官職は弟の忠治が継ぎました。
ちなみに忠勝はその後9歳で早世し、嗣子がいなかったため、小室藩は無嗣改易となった。
信長の野望での伊奈忠政
ゲーム信長の野望での伊奈忠政のパラメーターを見てみましょう。
統率 70 (361 位)
武勇 61 (756 位)
知略 63 (749 位)
内政 71 (330 位)
外政 68 (430 位)
合計 333 (346 位)
2200人中の順位です。
マイナー武将の割には高水準です!
奉行なので内政パラメーターが高いのはもっともですが、統率・武勇も高く設定されていますね。
まとめ
いかがでしたか?
裏方っていう感じで結構好きです。
ごりごりの戦国乱世というより、ある程度戦が少なくなり町の発展をしていくという時期にぴったりの人物ですね。
それでは、今後もメジャー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。