views : 1749
伊勢長島願証寺の3世住持である願証寺証恵(がんしょうじしょうけい)とは?【マイナー武将列伝】
こんにちは、歴史大好きtakaです。
今回紹介するのは、長島願証寺の僧である願証寺証恵(がんしょうじしょうけい)、別名證慧、諱を教幸、通称を兵衛督です。
一体何をしたのでしょうね?
さっそく行ってみよう。
目次[非表示]
願証寺証恵の一生
願証寺証恵伊勢国長島(現在の三重県桑名市長島町)の願証寺2世である父の実恵の子として永正13年(1516年)に生まれます。
母は大和願行寺1世勝恵の娘・藤向。妻は実淳の娘如栄。
天文5年(1536年)に父が死去したために、祖父の蓮淳の後見を受けて願証寺を継承します。
同年、本願寺10世証如(証恵の従兄弟にあたる)より、父が行っていた伊勢・尾張・美濃の3国の寺院・門徒支配の権限を保証される。
翌年には証如の諱から一字を拝領して「教幸」を諱とし、9世実如の絵像を下付され、続いて天文8年(1539年)には本尊を下付された。
永禄3年(1560年)には本願寺11世顕如が、門跡として認められた際に、門跡を補佐する院家の1つとして選ばれています。
永禄7年(1564年)に49歳で死去すると、願証寺の住持は子の願証寺証意が継ぎました。
この証意は、後に一向宗を率いて信長に徹底して抵抗しています。
信長の野望での願証寺証恵
ゲーム信長の野望での願証寺証恵のパラメーターを見てみましょう。
統率 60 (792 位)
武勇 56 (1026 位)
知略 59 (973 位)
内政 71 (330 位)
外政 66 (507 位)
合計 312 (536 位)
2200人中の順位です。
織田家を苦しめた願証寺はそろって高ステータスです。
願証寺証恵も全体的に高いですね。
まとめ
いかがでしたか?
証恵が長島一向一揆を指揮して織田信長に対抗し、天正2年(1574年)の長島壊滅の際に木曽川に身投げして命を断ったという記述があるようで、信長の野望さんもこれを採用して没年を1574年とされていますが、これは誤りのようです。
この戦を仕掛けたのは息子の証意のようです。
ゲーム関係者の方気づいてください!
それでは、今後もマイナー武将列伝の記事をアップしていきますのでよろしくお願いいたします。
参照
証恵