武将名鑑【信長の野望 新生】
浅井長政(あざいながまさ)
浅井長政(あざいながまさ)
浅井長政 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
84 (71 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
83 (98 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
76 (244 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
53 (1151 位) | ||||
合計 | 296 (154 位)2201人中 |
浅井長政 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 賢政 | ||||
幼名 | 猿夜叉丸 | ||||
仮名・通称 | 新九郎 備前守 | ||||
法号・戒名 | 養源院天英宗清 | ||||
父 | 浅井久政 | ||||
母 | 小野殿 | ||||
配偶者・正室 | 平井定武の娘 | ||||
側室1 | お市の方 | ||||
側室2 | 八重の方 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1545年 | 近江の戦国大名。小谷城主。久政の子。織田信長の妹・市を娶るが、朝倉家との友誼を重んじ信長と敵対。居城を攻められ、市と娘たちを信長に託し自害した。 | |||||||||
死亡年 | 1573年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
一所懸命 | 同一城に属す全郡で領内行動の集落掌握速度が上昇 | ||||||||||
反攻 | 城が強行されたときに攻城部隊へのダメージ増加 | ||||||||||
地の利 | 合戦で積極的に要所を襲撃 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
激励 | 自部隊の攻撃上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 16 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 26 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
浅井長政が登場する合戦
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佐和山城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1559年5月
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城入口 龍潭寺山門
北近江半国守護京極家の被官であった浅井氏は、浅井亮政の代に京極家の御家騒動を発端とした衰退に乗じて下克上を成し遂げ、越前朝倉家の助けを得て戦国大名として名を挙げた。
しかし、子の久政の代には南近江の六角氏に帰順するまでに衰退していた。
永禄2年(1559年)正月に元服した久政の子・賢政は、父の久政を隠居させると、六角義賢に反旗を翻す。
百々氏は、位置的に南北近江の両勢力の侵食を受けやすいため、その時々に京極氏・六角氏・浅井氏など大勢力に属してきたが、この時百々内蔵助盛実は浅井氏に属しており、賢政は内蔵助に佐和山城代を命じた。
5月、六角義賢は伴中務少輔に佐和山城への攻撃を命じたが、佐和山城代となった百々内蔵助が撃退した。
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肥田城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1559年9月19日
滋賀県彦根市肥田町
六角義賢(承禎)に反旗を翻した浅井長政が、六角領との国境周辺の国衆を誘降しはじめると、長く六角氏の配下にあった肥田城主の高野瀬秀隆も義賢から離反して長政につく。
宇曽川をへだてて隣接する肥田城は北国街道に接するため、この城が浅井方になると六角勢は江北への道を封じられてしまう。
永禄2年(1559年)9月、高野瀬秀隆の寝返りに激怒した六角義賢は子の義治とともに大軍を率いて肥田城に押し寄せると、城の周囲に堤を築いて水攻めにした。
この時の六角軍の総勢は2万5000人で、総大将は六角義賢、先鋒に蒲生定秀と永原重興、第2陣に楢崎壱岐守と田中治部大輔らが参陣していた。
しかし9月19日、堤が決壊したため城攻めは失敗に終わった。
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野良田の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1560年8月
滋賀県彦根市野良田町周辺
六角義賢
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佐和山城の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1561年3月
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城全景
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観音寺騒動 [京極氏・浅井氏と六角氏]
1563年10月7日
滋賀県蒲生郡安土町石寺
小谷城から観音寺城を望む
-
蒲生野の戦い [京極氏・浅井氏と六角氏]
1566年7月29日
滋賀県東近江市布施町・市辺町一帯
永禄9年(1566年)7月、布施山城主の布施公雄が六角義治に反旗を翻すと、義治は池田定輔に命じて現在の滋賀県東近江市稲垂町の玉緒山の頂上にある布施山城をすぐさま攻撃させた。
布施氏は、元は佐々木六角氏の家臣で、本家筋といわれる布施三河守家と布施淡路守家に分かれていたが、布施公雄は本家筋の布施三河守系統である。
永禄6年(1563年)の後藤氏謀殺に家臣が六角氏に反発して自領へ引き上げた「観音寺騒動」にも関わって、次第に六角氏と距離を置き出して今回の離反に至った。
苦戦を予想した公雄は、北近江の浅井長政に後詰の要請した。
長政自ら出陣し、7月29日、近江蒲生野において両軍が衝突する。
このときは敗れた長政であったが、陣容を立て直すと、9月9日、六角方の将・三雲賢持らを討った。
こののち六角氏は、織田信長と結んだ長政による攻勢を受け弱体化していく。
その後布施氏は、永禄11年(1568年)の織田信長の侵攻で織田氏に臣従する。
-
箕作城の戦い [織田信長の上洛戦]
1568年9月12日
滋賀県東近江市五個荘山本町
建部秀明
吉田重光
狛修理亮
吉田新助
LOSE
佐和山城から見た琵琶湖
永禄11年(1568年)8月7日、織田信長は近江小谷城の支城である佐和山城に赴き、ここで上洛途上に位置する観音寺城の六角承禎・義治父子に対し、入洛を助け道をあけるよう、足利義昭の近臣であった和田惟政ら家臣3名の使者を送って申し出た。
しかし、六角父子はこれを拒絶する。
信長は再度使者を送って入洛を助けるよう要請するも、病気を理由に使者に会わず追い返されてしまった。
7日間佐和山城にいた信長は、開戦もやむを得ないと考え岐阜城に戻った。
9月7日、六角氏征伐のため尾張・美濃・伊勢の大軍を率いて岐阜を出陣した。
8日には佐和山城近くの高宮に本陣をおき、義弟にあたる浅井長政隊と合流する。
さらに、松平信一率いる徳川家康からの援軍も加わり、織田・浅井・徳川連合軍の軍勢は5万 ~ 6万に膨れ上がった。
対して六角勢は、居城の観音寺城に馬廻り衆1000騎を、支城の箕作城に建部秀明・吉田重光・狛修理亮・吉田新助ら3000の兵を、和田山城には田中治部大輔ら主力6000を、その他支城18城に被官衆を置いて、各城が連繫しながら織田・浅井・徳川勢を挟撃する作戦にでる。
9月12日早朝、連合軍は愛知川を渡河すると3隊に分かれ、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉・佐久間信盛らの第3隊が箕作城に向かっていた。
織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測していたため、六角氏は和田山城に主力を置いていたが、戦端は箕作城でひらかれた。
まず木下隊2300が北の口から、丹羽隊3000が東の口から攻撃を開始した。
しかし箕作城は急坂や大木が覆う堅城で合ったため、午後五時には逆に追い崩されてしまう。
その夜、木下秀吉は夜襲を決行する。
3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に攻撃した。
7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城してしまった。
200以上の首級が上がった。
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姉川の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年6月28日
滋賀県長浜市野村町・三田町
姉川古戦場
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野田・福島砦の戦い [織田信長と三好三人衆]
1570年8月26日 ~ 9月23日
大阪府大阪市福島区玉川付近
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坂本城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年9月16日 ~ 19日
滋賀県大津市坂本
坂本城址公園と琵琶湖
先の姉川の戦いにて織田・徳川連合軍に敗れた越前の朝倉家と北近江の浅井家は、野田・福島砦の戦いで信長が窮地に陥ったのを見ると、元亀元年(1570年)9月16日、3万の大軍を率いて坂本口に出陣します。
これに対し、坂本のやや南にあり琵琶湖西岸方面における重要な拠点であった宇佐山城を守っていた信長の弟の織田信治は、森可成、蒲生茂綱ら4,000の兵で坂本に打って出ます。
しかし9月19日本願寺顕如の要請を受けた坂本里坊、延暦寺の僧兵達も朝倉・浅井連合軍に加わり織田軍は大敗し、織田信治・森可成が打ち取られてしまいます。 -
宇佐山城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1570年9月20日 ~ 21日
滋賀県大津市錦織町
9月20日続いて宇佐山城を朝倉・浅井連合軍は二手に分かれ包囲します。
城将を失った織田軍であったが、寡兵ながら士気は高く可成の家臣の各務元正、肥田直勝は防戦に務め猛攻を防ぎます。
そのため宇佐山城を攻略することを諦めた朝倉義景・浅井長政はそのまま京都に入ると、醍醐・山科まで進み、周辺を放火している。
蒲生茂綱は休む間もなく激闘を繰り広げた末に壮烈な討死を遂げたが、浅井・朝倉勢が茂綱の首を切り落としたところ、喉から手拭いが転がり落ちてきた。
茂綱は濡れた手拭で口中の渇きを癒しつつ、次々と押し寄せる連合軍の敵兵に対処していたのだった。 -
志賀の陣 [織田信長の越前・北近江平定]
1570年9月24日 ~ 12月14日
滋賀県大津市坂本一帯
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小谷城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1571年8月18日 ~ 27日
滋賀県長浜市湖北町伊部
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小谷城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1572年7月21日 ~ 9月16日
滋賀県長浜市湖北町伊部
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小谷城の戦い [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月27日 ~ 9月1日
滋賀県湖北市伊部
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