武将名鑑【信長の野望 新生】
大友義統(おおともよしむね)
大友義統(おおともよしむね)
大友義統 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
42 (1695 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
38 (1866 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
34 (2069 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
43 (1656 位) | ||||
合計 | 157 (2079 位)2201人中 |
大友義統 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
別名 | 吉統 吉統 羽柴吉統 | ||||
幼名 | 長寿丸 | ||||
霊名 | コンスタンチノ | ||||
仮名・通称 | 五郎 豊後侍従 | ||||
法号・戒名 | 中庵宗巌 | ||||
父 | 大友宗麟 | ||||
母 | 奈多夫人(奈多鑑基の娘) | ||||
配偶者・正室 | 尊寿院(吉弘鑑理の娘) | ||||
側室1 | 伊藤氏 | ||||
側室2 | 立花宗茂の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1558年 | 大友家22代当主。義鎮の子。島津・龍造寺両家に圧迫され、豊臣秀吉を頼り豊後1国を安堵された。しかし朝鮮派兵の際に敵前逃亡を犯したため改易された。 | |||||||||
死亡年 | 1610年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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用心 | 自部隊の防御上昇 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 25 |
大友義統が登場する合戦
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大友館の戦い [豊臣秀吉の九州平定]
1586年12月13日
大分県大分市顕徳町
戸次川の戦いで豊臣秀吉から派遣された仙石秀久・長宗我部元親・十河存保らを破った島津家久は、勢いに乗じてすぐさま豊後府内の大友館と丹生島城攻めに向かう。
そしてその日のうちに大友館を攻撃した。
このとき大友館は、大友宗麟の子で家督を継いでいた義統が守っていた。
しかし宗麟や義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反していたため府内での防戦を諦めた義統は、豊後高崎城に退きさらに豊前龍王城に落ちていった。大友館は、島津家久に占拠された。
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慶州城の戦い [文禄の役]
1592年4月20日
慶尚北道慶州市
-
木付城の戦い [九州の関ヶ原]
1600年9月10日 ~ 12日
大分県杵築市杵築
1600年、関ヶ原の戦いの際に、大友義統は西軍に属して再起を図ります。
西軍の総大将である毛利輝元の支援を受けて長門下関から豊後立石に渡海した大友吉統は、木付城(杵築城)を攻撃する。この木付城は、丹後宮津城主・長岡(細川) 忠興の飛び地だったところで、忠興の家臣である松井康之・有吉立行を派遣して統治に当たらせており豊後において唯一の東軍方だった。
豊後に上陸すると、1600年9月10日夜、吉弘統幸ら岐部玄達・吉弘七左右衛門・鉄炮頭の柴田統生、200騎が木付城を攻める。
二の丸にいた野原太郎右衛門が大友勢に内通して城下に火が掛けられます。
大友勢の攻撃を受けた松井康之・有吉立行らは、200余の兵とともに防戦に努める一方、豊前中津城の黒田如水(黒田官兵衛)に救援を安請する。
9月9日に大友勢の立石布陣の報を受けた如水は杵築城支援の先遣隊(一番備:久野次左衛門・曾我部五右衛門・母里与三兵衛・時枝平太夫を頭に約千人。二番備:井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤太郎助を頭に約千人)を派遣し自らも追って出陣した。
先遣隊は10日に赤根峠を越え、12日に木付に到着、如水の本隊を待てとの指示に従わずに13日の朝より鉄輪で合流した黒田先遣隊と杵築勢は石垣原へ兵を進めた。如水の本隊は先遣隊と同日の9日に中津城を出陣し、宇佐高森城(黒田孝利)・高田城(竹中重利)を経て10日に赤根峠を越えて国東に進出し富来城(垣見一直)を包囲した。
当時旗幟を鮮明にしていなかった重利は、子の竹中重義に兵200人を付けて黒田軍に従軍させた。大友軍が杵築城を攻撃すると、黒田軍は攻撃予定であった富来城(垣見一直)を後回しにして、合戦のあった13日には頭成まで家臣の井上九郎兵衛・時枝平太夫を進出させた。
黒田軍本隊は12日には安岐城を攻め、13日に打って出てきた熊谷直盛の軍を撃破し、杵築城の救援に向かった。松井康之・有吉立行らは、残すは本丸のみと言う所まで押し込まれましたが、松井康之が相原山に伏兵を置いて柴田統生を討取るなど反撃します。
落城が迫ったとき、黒田官兵衛の援軍が着陣したため、大友勢は兵を退いた。
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石垣原の戦い [九州の関ヶ原]
1600年9月13日
大分県別府市北石垣・南石垣一帯
長岡(細川)忠興の属城の豊後木付城を攻めていた大友義統は、黒田如水(官兵衛)からの援軍が迫るのをみて兵を退いた。
そこで、木付城を守っていた忠興の家臣である松井康之・有吉立行らは、黒田勢とともに木付城を出陣し、大友勢を討とうとした。9月13日、出撃した木付勢は実相寺山に布陣。
黒田軍先遣隊の一番備は実相寺山と角殿山の間道を抜けて石垣原に布陣していた大友勢と昼頃から衝突し、木付勢も後に戦闘に加わった。この衝突で大友勢の吉弘統幸は打ち破られたと見せかけて立石本陣近くまで退き、追ってきた黒田一番備は伏せていた宗像鎮統の攻撃と統幸の反撃により、黒田勢の久野次左衛門・曾我部五右衛門が討死。
今度は敗走する黒田勢を大友勢が実相寺近くまで追撃し、松井康之の陣に攻撃を掛けるが多勢と見て山麓の黒田軍の陣に矛先を変えてこれを圧倒した。
ここに黒田勢の二番備の野村市右衛門・井上九郎右衛門と木付勢が救援に駆けつけ大友勢を破った。大友勢は吉弘統幸・宗像鎮統をはじめ500余が討ち取られ、14日には実相寺に到着した如水は首実検と軍議を行った。
同日、義統は敗戦を知って自刃しようとしたが田原親賢に諌められる。
義統は剃髪して法体となり、田原親賢を黒田軍の陣の母里友信(妻は宗麟娘)に派遣して如水に降伏し、石垣原の戦いは終了した。
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