武将名鑑【信長の野望 新生】
井上之房(いのうえゆきふさ)
井上之房(いのうえゆきふさ)
井上之房 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
71 (357 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
74 (262 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
73 (325 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
55 (1051 位) | ||||
合計 | 273 (293 位)2201人中 |
井上之房 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
別名 | 政国 | ||||
幼名 | 九郎次郎 弥太郎 | ||||
仮名・通称 | 弥太郎 九郎右衛門 九郎左衛門 | ||||
法号・戒名 | 半斎道柏 | ||||
父 | 井上之正 | ||||
配偶者・正室 | 櫛橋伊定の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1554年 | 黒田家臣。黒田八虎の一人。職隆の頃より四代に仕えた忠臣。石垣原の戦いでは孝高に従って武功を挙げた。長政没後の「黒田騒動」では藩の存続に貢献した。 | |||||||||
死亡年 | 1634年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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乾坤 | 合戦で積極的に退き口を襲撃 | ||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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撹乱 | 敵部隊の体力低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 元服前 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 17 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 29 |
井上之房が登場する合戦
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木付城の戦い [九州の関ヶ原]
1600年9月10日 ~ 12日
大分県杵築市杵築
1600年、関ヶ原の戦いの際に、大友義統は西軍に属して再起を図ります。
西軍の総大将である毛利輝元の支援を受けて長門下関から豊後立石に渡海した大友吉統は、木付城(杵築城)を攻撃する。この木付城は、丹後宮津城主・長岡(細川) 忠興の飛び地だったところで、忠興の家臣である松井康之・有吉立行を派遣して統治に当たらせており豊後において唯一の東軍方だった。
豊後に上陸すると、1600年9月10日夜、吉弘統幸ら岐部玄達・吉弘七左右衛門・鉄炮頭の柴田統生、200騎が木付城を攻める。
二の丸にいた野原太郎右衛門が大友勢に内通して城下に火が掛けられます。
大友勢の攻撃を受けた松井康之・有吉立行らは、200余の兵とともに防戦に努める一方、豊前中津城の黒田如水(黒田官兵衛)に救援を安請する。
9月9日に大友勢の立石布陣の報を受けた如水は杵築城支援の先遣隊(一番備:久野次左衛門・曾我部五右衛門・母里与三兵衛・時枝平太夫を頭に約千人。二番備:井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤太郎助を頭に約千人)を派遣し自らも追って出陣した。
先遣隊は10日に赤根峠を越え、12日に木付に到着、如水の本隊を待てとの指示に従わずに13日の朝より鉄輪で合流した黒田先遣隊と杵築勢は石垣原へ兵を進めた。如水の本隊は先遣隊と同日の9日に中津城を出陣し、宇佐高森城(黒田孝利)・高田城(竹中重利)を経て10日に赤根峠を越えて国東に進出し富来城(垣見一直)を包囲した。
当時旗幟を鮮明にしていなかった重利は、子の竹中重義に兵200人を付けて黒田軍に従軍させた。大友軍が杵築城を攻撃すると、黒田軍は攻撃予定であった富来城(垣見一直)を後回しにして、合戦のあった13日には頭成まで家臣の井上九郎兵衛・時枝平太夫を進出させた。
黒田軍本隊は12日には安岐城を攻め、13日に打って出てきた熊谷直盛の軍を撃破し、杵築城の救援に向かった。松井康之・有吉立行らは、残すは本丸のみと言う所まで押し込まれましたが、松井康之が相原山に伏兵を置いて柴田統生を討取るなど反撃します。
落城が迫ったとき、黒田官兵衛の援軍が着陣したため、大友勢は兵を退いた。
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石垣原の戦い [九州の関ヶ原]
1600年9月13日
大分県別府市北石垣・南石垣一帯
長岡(細川)忠興の属城の豊後木付城を攻めていた大友義統は、黒田如水(官兵衛)からの援軍が迫るのをみて兵を退いた。
そこで、木付城を守っていた忠興の家臣である松井康之・有吉立行らは、黒田勢とともに木付城を出陣し、大友勢を討とうとした。9月13日、出撃した木付勢は実相寺山に布陣。
黒田軍先遣隊の一番備は実相寺山と角殿山の間道を抜けて石垣原に布陣していた大友勢と昼頃から衝突し、木付勢も後に戦闘に加わった。この衝突で大友勢の吉弘統幸は打ち破られたと見せかけて立石本陣近くまで退き、追ってきた黒田一番備は伏せていた宗像鎮統の攻撃と統幸の反撃により、黒田勢の久野次左衛門・曾我部五右衛門が討死。
今度は敗走する黒田勢を大友勢が実相寺近くまで追撃し、松井康之の陣に攻撃を掛けるが多勢と見て山麓の黒田軍の陣に矛先を変えてこれを圧倒した。
ここに黒田勢の二番備の野村市右衛門・井上九郎右衛門と木付勢が救援に駆けつけ大友勢を破った。大友勢は吉弘統幸・宗像鎮統をはじめ500余が討ち取られ、14日には実相寺に到着した如水は首実検と軍議を行った。
同日、義統は敗戦を知って自刃しようとしたが田原親賢に諌められる。
義統は剃髪して法体となり、田原親賢を黒田軍の陣の母里友信(妻は宗麟娘)に派遣して如水に降伏し、石垣原の戦いは終了した。
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