武将名鑑【信長の野望 新生】
天野隆重(あまのたかしげ)
天野隆重(あまのたかしげ)
天野隆重 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
77 (193 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
62 (719 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
64 (683 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
54 (1104 位) | ||||
合計 | 257 (434 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1503年 | 大内家臣。主家滅亡後は毛利家に属す。尼子家滅亡後、出雲月山富田城代となり山中幸盛の軍を撃退した。のちに元就の五男・元秋を補佐して出雲を支配した。 | |||||||||
死亡年 | 1584年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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反攻 | 城が強行されたときに攻城部隊へのダメージ増加 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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同討 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 44 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 51 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 58 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 68 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 80 |
天野隆重が登場する合戦
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松山城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1562年9月 ~ 1563年1月27日
福岡県京都郡苅田町松山
永禄5年(1562年)9月、大友宗麟は毛利元就による筑前への連絡を断つ目的で尼子義久から出陣の要請を受けた。
宗麟は豊前に戸次鑑連(立花道雪)や吉弘鑑理らを派遣し、元就の家臣の勇将・天野隆重、内藤就藤、毛利元種・元員や杉氏の一族である杉重良が守る苅田松山城を包囲させた。
これに対し元就は、翌永禄6年(1563年)正月に、子の毛利隆元と小早川隆景らの大軍を周防府中(防府)に送り込んで松山城攻略の指揮をさせる。
正月27日の決戦で毛利方が勝利をおさめると、永禄7年(1564年)に第13代将軍足利義輝の仲介を受け入れて、大友氏と毛利氏は和睦し松山城は大友氏に引き渡された。
その後大友方の長野祐盛が松山城に入った。 -
月山富田城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1569年7月 ~ 1570年2月14日
島根県安来市広瀬町富田
山名鹿之助像
永禄12年(1569年)7月、出雲に侵入した尼子勝久の6000の軍は、かつて尼子氏の本城であった月山富田城を攻囲した。
尼子方に投降する城兵もあらわれるなか、わずか300の兵で富田城を守る城将の天野隆重・野村士悦らは、毛利元就に後詰を要請する。
これに対し元就は毛利軍の主力が九州から撤退してくるのを待つと、永禄13年(1570年)正月6日に総大将に毛利輝元をおき吉川元春・小早川隆景・児玉就久ら2万6000の軍勢で出雲に向かわせた。
天野隆重は寡兵で籠城している際に、月山富田城を明け渡して降伏すると見せかけ、やってきた尼子再興軍に奇襲をかけ秋上宗信らを撃退したり、浄安寺に伏兵とした入った山中鹿之助らに対して鉄砲や矢を猛射し勝利していいる。
毛利勢の援軍が到着し、2月14日に布部山の戦いで尼子勢を破ると、富田城の包囲は解かれた。
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末石城の戦い [尼子勝久の再興戦]
1571年6月21日 ~ 8月18日
鳥取県西伯郡大山町
元亀2年(1571)6月14日、毛利元就が安芸郡山城で卒去したが、高瀬城を守る吉川元春は尼子家の遺臣達の策動もあり出雲を離れることはできなかった。
元春は、6月21日に宍戸隆家・口羽通良・天野隆重ら6000余の軍勢を率いて伯耆へ侵攻し、出雲新山城から抵抗を続けていた山中鹿之助幸盛が守る伯耆末石城を攻撃する。
末石城は300の兵で守るも、毛利方が城砦に沿って櫓を造って弓矢や投石により攻撃を加えたことで、8月18日に落城し、山中鹿之助は捕縛された。
その後、杉原盛重の尾高城で鹿之助は幽閉された。
宍戸隆家と口羽通良の助命嘆願により周防国佐波郡徳地と伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領を与える約束がなされたが、鹿之助はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している。
鹿之助は「赤痢になった」と偽って何度も厠へ通い、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すことに成功したという。
こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。
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松山城の戦い [備中兵乱]
1575年4月4日 ~ 5月22日
岡山県高梁市内山下
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