武将名鑑【新信長の野望】
毛利元就(もうりもとなり)
毛利元就(もうりもとなり)
安芸国の戦国大名、権謀術策により勢力を拡大し、10国に君臨した稀代の謀将。
毛利元就 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
473 (19 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
422 (36 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
676 (1 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
335 (23 位) | ||||
合計 | 1906 (4 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 31436 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 政略結婚を通して安芸を統一させる。厳島の戦いでは数々の謀略により陶晴賢を苦しめ、5倍の兵力を持つ敵軍を倒した。 | ||||||||||
タイプ | 智 | ||||||||||
適正 | 参謀 | ||||||||||
兵科 | 鉄砲 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
三人の息子の不仲を嘆いた彼が死ぬ間際に、「一本の矢は簡単に折れるが、三本纏めると容易に折れない」と論した、三本の矢の教えは有名な話である。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
自鉄砲部隊の防御力をUP。 偶数ターン、敵部隊にダメージ、その部隊の兵力が50%以下の場合追撃、そうでない場合デバフをする奥義が超強力! |
毛利元就が登場する合戦
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有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい) [大内義興・義隆の興亡]
1517年10月22日
広島県山県郡北広島町有田
毛利元就の初陣となる戦いとしても知られる。
永正13年(1516年)8月に毛利興元が死去すると、その子の幸松丸が2歳で当主となった。
叔父の毛利元就が後見役となるが、元就も二十歳であったため、これを好機と見た武田元繁は己斐城の戦いで毛利方に奪われていた有田城を奪還するべく永正14年(1517年)10月22日これを攻撃した。
毛利元就は吉田郡山城への救援を要請し、弟の相合元綱や桂元澄・井上氏・坂氏・渡辺勝・福原貞俊・口羽氏・赤川氏・粟屋氏・児玉氏らを主力とし武田軍にあたる。
毛利元就や吉川元経らは有田城外で打って出て、武田元繁のほかその家臣の熊谷元直・香川行景らを討ち取る戦功をあげた。
武田軍5,000に対して、毛利・吉川軍は1,000と寡兵ながらも勝利したため「西の桶狭間」とも呼ばれる。
これをきっかけに安芸武田氏は衰退を辿っていったのであった。
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銀山城の戦い(ぎんやまじょうのたたかい) [大内義興・義隆の興亡]
1524年7月10日
広島県広島市安佐南区祇園町
鏡山城などを奪われた大内義興・義隆父子は、大永4年(1524年)に反撃に転じ、尼子経久が伯耆国に出陣している間を狙って、5月下旬に25,000の軍勢で安芸に侵入し、厳島に本陣を構えた。武田光和と桜尾城主・友田興藤の率いる軍勢は、友田方の大野弾正が籠もる門山城の後詰として大野女滝に出陣するが、大野弾正が大内方に内応して城に火を放ったために、武田・友田軍は敗北する。
大内軍の追撃で武田軍は70〜80人が討ち取られた(大野女滝の戦い)。大内軍は、本陣を門山城に移すと、義興の率いる本隊10,000が桜尾城を、嫡子の大内義隆を大将とする別働隊15,000が光和の居城である佐東銀山城を包囲した。
義隆はこの戦いが初陣であり、大内氏の重臣である陶興房らが加わっている。陰徳太平記によると、大内軍が佐東銀山城付近に布陣していた頃、熊谷信直や香川吉景などの武田方国人衆1,000騎余は”坂の上”と呼ばれるところに陣を置いて、大内軍の様子を見ていた。
興房は、国人衆が尾根伝いに城内に入るなら国人らの領地を先に攻めれば良く、そうしないとしても少数なので各個撃破できると判断していたが、杉氏と問田氏は6月27日の早朝に手勢を率いて坂の上を勝手に襲撃しようとした。
しかし、杉・問田勢1,500騎の朝駆けは熊谷・香川勢に見抜かれてしまい、伏兵により返り討ちにされている。7月3日、城兵3,000と共に籠城していた光和は、城外に出て大内の大軍と戦った。
武田軍は少数であったが奮戦し、日暮れまで勝敗は決しなかった。
この戦いでは、怪力で知られる光和自身が兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っている。一方、毛利元就からの急使により大内軍の安芸攻めを知った尼子経久は、銀山城を救援するため伯耆から出雲飯石郡赤穴まで引き返し、軍5,000を派遣。
尼子方に属していた毛利元就を初めとする安芸国人衆を引き連れ、大内軍と対峙した。
7月10日に大内軍と尼子軍の合戦が行われ、牛尾氏・亀井氏が率いていた尼子氏直属の軍勢が先陣として戦うが、義隆の初陣で士気の高い大内軍が第2陣(平賀氏・宍戸氏・三吉氏・宮氏の軍勢)まで撃ち破って勝利した。この時元就は、吉川・小早川・熊谷・香川・三須の手勢と共に尼子軍第3陣として控えていた。8月5日の夜、尼子軍は悪天候を突いて夜襲を行った。
この夜襲は、元就の提案により行われたもので、夜襲部隊は元就に加えて熊谷信直・香川光景・三須房清などの安芸国人衆を中心に編成されていた。
襲撃を受けた大内陣営は520余名が討たれた(毛利軍の被害は20余名とされる)ため、義隆の初陣に泥を塗らせないために、同月10日に大内軍は撤退した。尼子軍の救援により安芸武田氏は佐東銀山城を守りきったものの、友田氏の桜尾城は10月10日に大内方に降伏(二の丸まで大内軍に攻められてもなお抗戦を続けていたが、吉見頼興の仲介で講和に応じた)、大内軍の安芸侵攻は一定の成果を挙げた。
また、翌5年(1525年)3月には、毛利氏が尼子氏を離反して大内方についたため、安芸を巡る情勢は大内氏が優勢となった。
なお、享禄元年(1528年)にも大内義興・義隆の軍勢が再び安芸に出兵して佐東銀山城を包囲しているが、義興の病により城を落とせずに帰国している(義興は同年死去した)。 -
銀山城の戦い(かなやまじょうのたたかい) [大内義興・義隆の興亡]
1541年5月13日
広島県広島市安佐南区祇園町
安芸守護であった武田氏は、毛利元就の台頭と対照的に勢威が衰えながらも出雲の尼子氏に支えられて持ちこたえていた。
武田信実は出雲の尼子氏に安芸武田氏復興の支援を要請し、それに応えた尼子詮久(晴久)は尼子氏家臣の牛尾幸清に2000の兵を与えて銀山城に入城させた。
そして自身は3万の兵を率いて、勢力を拡大する毛利軍を攻略するため毛利氏の居城吉田郡山城の近くに布陣した。
しかし毛利・大内連合軍に郡山城の戦いで敗北すると、尼子軍は出雲に退却した。
尼子氏の敗走を知り、大内氏との講和を巡る家臣団の対立を解消できず、安芸の国衆や居城の銀山城でも退去する家臣が続出したため、孤立した武田信実は銀山城を捨て出雲に逃れた。
その後は、武田氏の一族である武田信重が銀山城を兵300で守っていたが、 大内義隆の命を受けた陶隆房・毛利元就に攻められ、5月13日に降伏開城する。
佐東銀山城を落とすにあたり、毛利元就は火を点けた草鞋1000足を夜の太田川に流すことで城兵の注意を大手(表)に引きつけ、搦め手(裏)から急襲し、城兵を総崩れにさせている。
太田川岸には千足(広島市東区戸坂)という地名が残っている。
銀山城の落城により、武田氏は滅亡したのである。
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赤穴城の戦い(あかなじょうのたたかい) [大内義興・義隆の興亡]
1542年4月 ~ 7月27日
島根県飯石郡飯南町
大内義隆 (35)大内晴持
陶晴賢 (21)杉重矩 (44)内藤興盛 (47)毛利元就 (45)宍戸隆家 (24)平賀隆宗 (17)吉川興経 (34)小早川正平 (19)天野興定 (67)熊谷信直 (35)三吉広高 (-16)杉原理興 (34)多賀山通続 (36)山内隆通 (12)本城常光 (29)益田藤兼 (13)WIN
赤穴光清 (49)LOSE
天文9年(1540年)8月、尼子晴久(詮人)は、毛利元就の拠る安芸国郡山城を攻略するため出陣したが、大内義隆から派遣された陶晴賢の率いる援軍もあり敗北してしまった(郡山城の戦い)。
この敗北により、尼子方は多くの将兵を失い、尼子氏に従っていた国人領主らの多くが大内方へ離反した。
天文11年(1542年)正月11日、大内義隆はこの勢いに乗じて、ついに尼子氏を討つため出雲攻めの兵を興す。
義隆は嫡子・大内晴持や陶晴賢・杉重矩・内藤興盛ら直属の1万5000余の軍勢を率いて山口の築山館を出陣する。
安芸国を経由して、安芸国の毛利元就・宍戸隆家・平賀隆宗 ・吉川興経・小早川正平・天野興定・熊谷信直らの軍勢と、備後国の三吉広隆・山名(杉原)理興・多賀山通続・山内隆通らの将兵と合流し、3月には石見国でも本城常光・益田藤兼らの軍勢をも糾合し、総勢4万余の大軍に膨れ上がった。
4月、出雲・石見・ 備後と境を接し、尼子十旗のひとつである赤穴城に攻撃を開始する。
赤穴城は堅固な要害を備えていたことに加えて月山富田城からの援兵を得て兵力も増強させていたため、4万の軍勢の攻撃でも落ちる気配がなかった。
しかし、7月27日、城主の赤穴光清が不運にも流れ矢に当たって討死したため、城兵は光清の妻子の助命を条件として降伏した。
城兵3000余は、尼子氏の本城である出雲富田城に落ちていった。
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第一次月山富田城の戦い(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい) [大内義興・義隆の興亡]
1543年3月 ~ 5月7日
島根県安来市広瀬町富田
大内義隆 (36)陶晴賢 (22)杉重矩 (45)内藤興盛 (48)冷泉隆豊 (30)弘中隆兼 (33)大内晴持
毛利元就 (46)小早川正平 (20)益田藤兼 (14)福島源三郎親弘
右田弥四郎
毛利隆元 (20)渡辺通 (32)LOSE
赤穴城を落とした大内義隆は勢いに乗じ、天文12年(1543年)3月、尼子晴久の居城である出雲の月山富田城に攻撃を開始する。
大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。
また、義隆の養嗣子の大内晴持も併せて出陣していた。
毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。
しかし、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に失敗したり、出陣して1年を過ぎていた大勢の士気は下がっていたり、城攻めは難航する。
そして4月末には、尼子方から大内方に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。
城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。
5月7日、劣勢が明白となった大内軍は撤退を開始し、出雲意宇郡出雲浦へ退いた。
尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。
このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。
義隆は宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月25日に山口に帰還する。
しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。
殿を命じられていた毛利軍は、沼田小早川正平らが討死するなど過酷を強いられながら安芸への撤退を続けるも、石見の山吹城から繰り出された尼子軍の追撃によって、石見国の大江坂七曲りで元就と嫡子の隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。
この時、毛利家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、内藤九郎右衛門元茂・波多野源兵衛・井上与三右衛門元有・井上源左衛門・三戸与五郎・三戸小三郎ら7人が囮役となり追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。
現在この毛利元就が九死に一生を得た場所は、七騎坂(島根県大田市温泉津町小浜)と呼ばれている。
吉田郡山城に無事帰還した元就は、渡辺通の献身に感動し、通の子・渡辺長を股肱の臣として重用している。
寵愛していた大内晴持が船の転覆により溺死したことで、義隆はそれ以降政治に対する意欲がなくなり、一方で尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ最盛期を迎える。
この遠征は1年4ヶ月にも及んだ挙句敗戦し、大内氏衰退の一因となった。
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神辺城の戦い(かんなべじょうのたたかい) [大内義興・義隆の興亡]
1548年6月18日 ~ 1549年9月4日
広島県福山市神辺町
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折敷畑の戦い(おしきばたのたたかい) [毛利元就の周防・長門平定]
1554年6月5日
広島県廿日市市宮内東谷一帯
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矢野城の戦い(やのじょうのたたかい) [毛利元就の周防・長門平定]
1555年4月11日
広島県広島市安芸区矢野町
天文24年(1555年)1月、野間隆実は大内義長・陶晴賢方の白井房胤・賢胤父子と共に仁保島城を攻撃し、毛利氏との敵対を明らかにした。
隆実は、大内義隆の偏諱を受けており、安芸国内でも有数の水軍を保持していた。
毛利元就はまさか隆実が毛利氏を裏切るとは思わず、これに激怒して野間隆実の居城である矢野城攻めを決意した。
4月、毛利軍の南下を知った晴賢は、山口より羽仁源七や小幡某に兵100余を預け、矢野城に入城させて防備を強化した。
毛利軍は出城のひとつを落とした後、矢野城を包囲し攻城戦を開始。
毛利軍の猛攻の前に城は落城寸前となった。
ここで隆実の舅・熊谷信直を通じて降伏し、矢野城は開城した。
野間隆実は熊谷信直の所領である安芸三入庄に移送されたのち謀殺され、その直後に家臣や城兵も矢野城下の真教寺に幽閉されて殺害された。
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厳島の戦い(いつくしまのたたかい) [毛利元就の周防・長門平定]
1555年10月1日
広島県廿日市市宮島町一帯
展望から望む宮島風景
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須々万沼城の戦い(すすまぬまじょうのたたかい) [毛利元就の周防・長門平定]
1557年2月28日 ~ 3月3日
山口県周南市須々万本郷
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若山城の戦い(わかやまじょうのたたかい) [毛利元就の周防・長門平定]
1557年3月8日
山口県周南市福川
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且山城の戦い(かつやまじょうのたたかい) [毛利元就の周防・長門平定]
1557年4月2日
山口県下関市田倉
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温湯城の戦い(ぬくゆじょうのたたかい) [毛利元就の石見・出雲平定]
1558年5月20日 ~ 8月25日
島根県邑智郡川本町
石見銀山争奪のため出雲への侵攻を図る毛利元就は、永禄元年(1558年)5月、子の吉川元春に尼子晴久に従う小笠原長雄が守る石見温湯城を攻撃させた。
まず小笠原長雄は尼子軍と共に別当城(邑南町)に陣を構えて迎え撃つが温湯城に退却。
5月20日、自ら大軍を率いて石見に入った毛利元就・毛利隆元・小早川隆景らの軍勢は、吉川元春の軍勢らと合流し1万2000の軍勢となり、温湯城を包囲した。
この時元就は、温湯城のすぐ東側に陣城である会下山城を作っている。
7月、毛利勢の石見侵攻に対し、出雲富田城の尼子晴久は自ら2万5千の援軍を率いて温泉津に着陣するが、豪雨の影響による増水で江の川を渡河できず温湯城を救援することができなかった。
その際に元就は小笠原氏の所領を江の川の北側へ移し、温湯城のある川本をはじめとした小笠原氏の本領の半分は吉川氏に与えられた。
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山吹城の戦い(やまぶきじょうのたたかい) [毛利元就の石見・出雲平定]
1559年7月
島根県大田市大森町
永禄元年の山吹城の戦いに敗れ、石見大森銀山を尼子晴久に奪われた毛利元就は、翌2年に銀山を奪還するべく山吹城攻略に向かう。
奥湯城の小笠原長雄を先陣とし、子の吉川元春・小早川隆景ら1万4000人に及ぶ軍勢で出陣した元就は、山吹城の向かいに位置する仙ノ山に本陣を置いた。
数日間の攻撃を試みたが、尼子方の山吹城主の本城常光の抵抗が激しかった。
落城が容易ではないことと、毛利氏の門司城を大友義鎮が攻め始めたこともあり退却を決意する。
撤退中に降露坂で尼子勢に追撃され毛利軍は敗走。
元就も命からがらに逃げるという混乱状態に陥ったと言われる。 -
松山城の戦い(まつやまじょうのたたかい) [毛利元就の石見・出雲平定]
1562年2月5日 ~ 6日
島根県江津市松川町市村
毛利氏に離反し尼子氏についた福屋隆兼は、永禄4年(1561年)11月の福光城の戦いに敗れ、属城の石見松山城に入って籠城した。
毛利元就は隆兼を追撃して松山城を包囲するが、兵力が不足していたため、九州から主力が戻るのを待ち、翌永禄5年(1562年)2月5日に松山城を総攻撃する。
6日隆兼は居城である本明城に逃れ、抗戦の不利を悟りさらに出雲に敗走した。
残された 一族や家臣1000余は降伏したものの、全員が殺害されたという。
福屋氏は滅亡した後は小笠原長旌の所領となった。
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山吹城の戦い(やまぶきじょうのたたかい) [毛利元就の石見・出雲平定]
1562年6月
島根県大田市大森町
永禄3年(1560年)12月、尼子晴久の急死後に跡を継いだ子の義久は、毛利元就と和睦することで石見の安定を図ろうとする(雲芸和議)。
このため、結果的に元就から離反した福屋隆兼を見殺しにすることになってしまう。
永禄5年(1562年)6月、山吹城を攻められた本城常光は義久を見限って元就に降伏すると、動揺した尼子方国衆も降り石見は元就によって平定された。
石見銀山と山吹城を手中に収めた元就は、山吹城に吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門を置いた。
12月、本城常光の武勇と性格への猜疑から元就によって誅殺されると、毛利側に寝返っていた尼子側国人の大半が再び尼子側へと寝返り、石見は再び混乱に陥る。
毛利氏は出雲平定に4年もかかる事となる。
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白鹿城の戦い(しらがじょうのたたかい) [毛利元就の石見・出雲平定]
1563年8月13日 ~ 10月13日
島根県松江市法吉町
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熊野城の戦い(くまのじょうのたたかい) [毛利元就の石見・出雲平定]
1563年9月10日 ~ 1565年1月
島根県松江市八雲町熊野
永禄6年(1563年)9月27日、白鹿城を包囲していた毛利元就は、同時に尼子十旗のひとつで熊野久忠・大西高由が守る熊野城を攻撃した。
このとき毛利勢が300梃の鉄砲で攻撃したと『陰徳太平記』に記されていることから、この熊野城の戦いは「熊野鉄砲揃の戦い」ともよばれる。
熊野城側は有力武将が戦死したもののよく守り一度は毛利軍を撃退するも、1年半近くの籠城の末、熊野久忠は永禄8年(1565年)正月に降伏する。
これにより富田城は、出雲国内で孤立することになった。
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月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい) [毛利元就の石見・出雲平定]
1565年4月17日 ~ 1566年11月21日
島根県安来市広瀬町富田
月山富田城二の丸
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