武将名鑑【新信長の野望】
滝川一益(たきがわかずます)
滝川一益(たきがわかずます)
織田氏の家臣。
滝川一益 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
388 (37 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
364 (46 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
554 (10 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
219 (62 位) | ||||
合計 | 1525 (36 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 18706 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 各地の戦いで活躍し、人々に「進むも滝川、退くも滝川」と言われた。甲斐の平定後は関東管僚となる。本能寺の変後に北条軍と激突するも惨敗し、失脚した。 | ||||||||||
タイプ | 智 | ||||||||||
適正 | 参謀 | ||||||||||
兵科 | 大筒 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
火槍と博打を得意としたが、それが原因で勘当された。そして槍法を実力主義の信長に認められ、家臣となる。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
自大筒部隊の包囲値をUP。 自大筒部隊の防御力をUP。 |
滝川一益が登場する合戦
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箕作城の戦い(みつくりじょうのたたかい) [織田信長の上洛戦]
1568年9月12日
滋賀県東近江市五個荘山本町
建部秀明
吉田重光
狛修理亮
吉田新助
LOSE
佐和山城から見た琵琶湖
永禄11年(1568年)8月7日、織田信長は近江小谷城の支城である佐和山城に赴き、ここで上洛途上に位置する観音寺城の六角承禎・義治父子に対し、入洛を助け道をあけるよう、足利義昭の近臣であった和田惟政ら家臣3名の使者を送って申し出た。
しかし、六角父子はこれを拒絶する。
信長は再度使者を送って入洛を助けるよう要請するも、病気を理由に使者に会わず追い返されてしまった。
7日間佐和山城にいた信長は、開戦もやむを得ないと考え岐阜城に戻った。
9月7日、六角氏征伐のため尾張・美濃・伊勢の大軍を率いて岐阜を出陣した。
8日には佐和山城近くの高宮に本陣をおき、義弟にあたる浅井長政隊と合流する。
さらに、松平信一率いる徳川家康からの援軍も加わり、織田・浅井・徳川連合軍の軍勢は5万 ~ 6万に膨れ上がった。
対して六角勢は、居城の観音寺城に馬廻り衆1000騎を、支城の箕作城に建部秀明・吉田重光・狛修理亮・吉田新助ら3000の兵を、和田山城には田中治部大輔ら主力6000を、その他支城18城に被官衆を置いて、各城が連繫しながら織田・浅井・徳川勢を挟撃する作戦にでる。
9月12日早朝、連合軍は愛知川を渡河すると3隊に分かれ、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉・佐久間信盛らの第3隊が箕作城に向かっていた。
織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測していたため、六角氏は和田山城に主力を置いていたが、戦端は箕作城でひらかれた。
まず木下隊2300が北の口から、丹羽隊3000が東の口から攻撃を開始した。
しかし箕作城は急坂や大木が覆う堅城で合ったため、午後五時には逆に追い崩されてしまう。
その夜、木下秀吉は夜襲を決行する。
3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に攻撃した。
7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、防戦したが支えきれず、夜明け前に落城してしまった。
200以上の首級が上がった。
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木造城の戦い(こつくりじょうのたたかい) [織田信長の伊勢平定]
1569年5月12日 ~ 8月23日
三重県津市木造町
木造城は伊勢国司北畠氏領域の最北端に位置する木造氏の居城である。
永禄12年(1569年)5月、織田信長は伊勢攻略のため、先鋒部隊として滝川一益を送り込みます。
一益は木造家臣の源浄院(滝川雄利)と柘植三郎左衛門保重を抱き込み、木造城主の木造具政を織田方に寝返らせることに成功。
木造具政は北畠家当主である具教の実弟で、木造家の養子となり継いでいたが、兄弟仲が悪く織田方になびいてしまった。これに対して北畠具教は出兵し、雲出川原にて一戦に及び木造城を包囲。
しかし城は落ちず、八月になると織田信長率いる十万の大軍が中伊勢に進撃してきたため、北畠勢は退却し大河内城に籠った。 -
阿坂城の戦い(あざかじょうのたたかい) [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日
三重県松阪市大阿坂町
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大河内城の戦い(おかわちじょうのたたかい) [織田信長の伊勢平定]
1569年8月26日 ~ 10月3日
三重県松阪市大阿坂町
織田信長 (35)森可成 (46)坂井政尚
蜂屋頼隆 (35)佐久間信盛 (42)豊臣秀吉 (32)氏家卜全 (56)安藤守就 (46)織田信包 (26)滝川一益 (44)丹羽長秀 (34)稲葉一鉄 (54)池田恒興 (33)織田信雄 (11)WIN
1569年(永禄12年)8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、伊勢攻略のため総勢7万といわれる大軍で岐阜を出陣。
23日、事前に送り込んだ滝川一益が寝返らせすことに成功した木造城に着陣。北畠軍は天険の要害である大河内城やその支城に籠城しており、大河内城の本軍は約8,000だったと言われている。
織田軍の木下秀吉は史上の阿坂城を落城させたり、滝川一益は多芸城を焼き討ちにしたりと織田軍が優勢となるも、要害である大河内城はなかなか落とせなかった。
そこで兵糧攻めを行い、北畠家は降伏。
という北畠家に不利な条件で和睦した。
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刀禰坂の戦い(とねざかのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月13日
福井県敦賀市刀根
天正元年(1573年)織田信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。
朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。
織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。
余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。
朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興や河合吉統、山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。 -
長島の戦い(ながしまのたたかい) [織田信長の長島一向一揆鎮圧]
1574年7月13日 ~ 9月29日
三重県桑名市長島町
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孝子峠の戦い(きょうしとうげのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年2月22日
大阪府泉南郡岬町
雑賀衆
LOSE
天正五年(1577年)2月22日、志立に到着した織田軍は、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していった。
浜手を進む織田勢には、織田信長の子である織田信忠・北畠 (織田) 信雄・神戸(織田)信孝のほか、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・長岡 (細川)藤孝・筒井順慶らが主力として加わり、和泉山脈を横切る孝子峠に向かう。
この孝子峠は、和泉と紀伊との国境に位置している重要な地点であったため、雑賀衆はここで織田勢を迎え撃とうとしたのである。
しかし織田勢の主力に撃破された雑賀衆は退き、その勢いに乗った織田勢は峠を下って中野城に向かった。
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平井城の戦い(ひらいじょうのたたかい) [織田信長の紀伊平定]
1577年3月1日
和歌山県和歌山市平井
天正5年3月1日、浜手を進んだ織田勢のうち、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・長岡藤孝・筒井順慶らの孝子峠からの3万の軍勢は、中野城を1日で攻略した後、雑賀衆を率いていた鈴木重秀の居城である平井城を攻撃した。
この平井城は大軍を迎え撃つには適さない平城であり、重秀自身はすでに退去していたのだろう。
織田軍は、圧倒的な勝利ではなかったようだ。
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細工所城の戦い(さいくしょじょうのたたかい) [織田信長の丹波・丹後平定]
1578年4月10日 ~ 26日
京都府南丹市園部町小桜町
織田信長の命で丹波八上城を包囲していた明智光秀らは、本願寺の戦いのため摂津に転戦しその後また丹波に戻ると八上城を包囲し、周りの支城を攻撃する。
天正6年(1578年)4月10日から明智光秀・滝川一益・丹羽長秀らは、波多野氏の属城であり荒木氏綱が守る丹波細工所城を包囲した。
激戦の末に水の手を絶たれた荒木氏綱らは城を捨てて退去する。
こののち細工所城には光秀の家臣が入った。
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神吉城の戦い(かんきじょうのたたかい) [織田信長の播磨・但馬平定]
1578年6月27日 ~ 7月20日
兵庫県加古川市東神吉町
天正6年(1578年)4月、三木城攻めが中断に追い込まれると、織田信長は嫡男の織田信忠(すでに家督を譲られており織田家当主であった)を総大将とする援軍を播磨に送り込みます。
織田軍には明智光秀、滝川一益、佐久間信盛など名だたる武将がいたようです。6月27日、信忠は三木城の最も有力な支城である神吉城を包囲します。
織田軍3万に対し神吉城はおよそ2,000ほどの寡兵でした。7月15日に織田軍が総攻撃を始めます。
7月20日、しばらく耐えるも近親者の内通であえなく神吉城は落城し城主・神吉頼定が討死します。
これにより三木城は、瀬戸内海からの糧道を断たれることになったのである。 -
田野城の戦い(たのじょうのたたかい) [織田信長の甲斐・信濃平定]
1582年3月11日
山梨県甲州市大和町田野
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神流川の戦い(かんながわのたたかい) [天正壬午の乱]
1582年6月18日 ~ 19日
埼玉県児玉郡上里町金久保一帯
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長島城の戦い(ながしまじょうのたたかい) [賤ヶ岳の戦い]
1583年2月12日 ~ 7月
三重県桑名市長島町西外面
天正11年(1583年)2月10日、羽柴秀吉は7万5000余の軍勢で柴田勝家や神戸信孝側についた滝川一益を攻略するため北伊勢に出陣した。
羽柴勢は北伊勢にある長島・峰・亀山などの諸城を攻略していった。
一益の居城である長島城へは、秀吉自ら3万余の大軍を率いて攻撃。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は敗北し、神戸信孝も秀吉に降伏している中、一益は長島城に籠城して羽柴勢の攻撃を凌いだが、7月になって降伏開城した。
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峰城の戦い(みねじょうのたたかい) [小牧・長久手の戦い]
1584年3月14日
三重県亀山市川崎町森
3月14日、羽柴秀吉は蒲生賦秀(氏郷)を大将として、滝川一益と関盛信・一政父子ら1万余の軍勢で織田信雄方の伊勢峰城を攻撃させた。
峰城には、尾張蟹江城主の佐久間信栄や天野景俊ら4000余の兵が守っていた。
この峰城は、賤ヶ岳の戦いの前哨戦である峰城の戦いの舞台となったところで、城壁の修復も終わっていなかった。
城から打って出た兵300余が討ち取られるとわずか数日で落城し、佐久間信栄は夜陰に乗じて尾張に落ちていった。
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蟹江城の戦い(かにえじょうのたたかい) [小牧・長久手の戦い]
1584年6月22日 ~ 7月3日
愛知県海部郡蟹江町
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