武将名鑑【新信長の野望】
酒井忠次(さかいただつぐ)
酒井忠次(さかいただつぐ)
徳川四天王の中心、主君である家康の教育係を担当したことがある。
酒井忠次 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
382 (39 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
351 (51 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
539 (14 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
221 (59 位) | ||||
合計 | 1493 (40 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 18542 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 家康が成人すると東三河衆を率いて各地で戦い、数多くの軍功を立てた。その才能は豊臣秀吉にも賞賛されている。 | ||||||||||
タイプ | 智 | ||||||||||
適正 | 参謀 | ||||||||||
兵科 | 槍兵 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
三方ヶ原の戦いの後、武田氏が徳川氏に皮肉を込めて送った歌に対して、忠次は言葉遊びで更なる皮肉返しをした。正月に門松の竹を斜めに切る風習もこれに由来している。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
自槍兵部隊の防御力をUP。 偶数ターン時、自部隊の防御力をUP、槍兵部隊の場合確率で防御力もUP。 |
酒井忠次が登場する合戦
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吉田城の戦い(よしだじょうのたたかい) [徳川家康の三河平定]
1564年6月14日 ~ 20日
愛知県豊橋市今橋町
永禄5年(1562年)正月15日、松平元康(後の徳川家康)は尾張清洲城の織田信長と同盟を結ぶ。
永禄6年(1563年)7月、松平元康は今川義元の偏諱をうけた「元康」という名から「家康」に改め、今川氏との決別を示す。
永禄7年(1564年)6月、三河平定を目指す家康は、今川氏真の家臣である小原鎮実が守る東三河の要衝吉田城を包囲する。後詰のあてがない中10カ月にわたり籠城するも、降伏勧告を容れた鎮実が開城して駿河に退去した。
家康は酒井忠次を吉田城主とし、関東移封になるまで以降15年間忠次がこの地を治めた。
なお、駿河に退去した鎮実はこののちも家康に抗戦し続けることになる。
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田中城の戦い(たなかじょうのたたかい) [織田信長の甲斐・信濃平定]
1582年2月20日 ~ 3月1日
静岡県藤枝市田中
織田信長の軍勢に呼応して、2月18日、徳川家康も遠江浜松城を出陣して武田勝頼の領国駿河に侵入する。
遠江小山城を自落させた家康は、大須賀康高・酒井忠次・本多忠勝・榊原康政らを先鋒にして、武田勝頼の属城である駿河田中城を包囲した。田中城は堅固に備えを立てて落城の気配を見せなかった。
攻めあぐねた家康は成瀬正一に命じて開城の説得に当たらせるが、田中城の依田信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続ける内に織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である穴山梅雪より開城を勧める書簡を受けて、ようやく3月1日に信濃の本領を安堵する条件で城を大久保忠世に引き渡した。
開城後、信蕃は家康より召抱えの要請を受けるが、「お館様(勝頼)の安否の詳細が判明されない限りは仰せに従いかねる」と答えて謝絶した。
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高島城の戦い(たかしまじょうのたたかい) [天正壬午の乱]
1582年7月22日 ~ 8月6日
長野県諏訪市上諏訪桜ヶ丘
武田氏の滅亡後、諏訪郡は織田信長の家臣・河尻秀隆の領地となっていた。
しかし本能寺の変による混乱に乗じて、北条氏と結ぶ旧主の諏訪頼忠が旧臣の千野氏らに擁立されて河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を駆逐した。諏訪頼忠は信濃高島城(茶臼山城)に入って諏訪氏の家督を継ぎ本領の諏訪郡を回復した。
信濃の領国化を図る徳川家康は、家臣・酒井忠次に高島城を攻撃させたが、北条氏直からの援軍が着陣する前に兵を退く。
こののちも抵抗を続けた頼忠は、天正11年(1583年)に家康に降伏し、諏訪領は安堵された。 -
羽黒の戦い(はぐろのたたかい) [小牧・長久手の戦い]
1584年3月17日
愛知県犬山市羽黒
徳川家康が尾張小牧山城に本陣をおくと、羽柴秀吉方の池田恒興とその女婿・森長可が小牧山城の攻撃を図る。
しかしこの動きはすぐに徳川軍に知られ、同日夜半に家康配下の松平家忠・酒井忠次・奥平信昌・榊原康政らは5000余の兵を率いてひそかに打って出て、池田勢と合流すべく尾張羽黒に滞陣していた森勢の陣を急襲する。
翌3月17日早朝、酒井勢の奇襲により森勢は300余が討ち取られたという。
恒興は3万余の軍勢を率いて駆けつけたが、徳川勢は池田勢との衝突を避け、小牧山城に退いた。
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