武将名鑑【新信長の野望】
毛利隆元(もうりたかもと)
毛利隆元(もうりたかもと)
安芸国の戦国大名、元就の嫡子。
毛利隆元 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
321 (62 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
288 (63 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
328 (59 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
554 (4 位) | ||||
合計 | 1491 (41 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 25296 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 幼少期から大内家の人質となり、大内義隆が成人加冠式を行った。後に父の指揮の下領地を経営するが、出雲遠征中に病死する。 | ||||||||||
タイプ | 政 | ||||||||||
適正 | 参謀 | ||||||||||
兵科 | 農兵 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
父の功労があまりに大きく、自分のことを「名家に生まれた不幸な子」だと嘲笑った。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
銅銭の最終効率が上昇。 騎兵の訓練速度上昇。 戦闘に不向き。 |
毛利隆元が登場する合戦
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第一次月山富田城の戦い(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい) [大内義興・義隆の興亡]
1543年3月 ~ 5月7日
島根県安来市広瀬町富田
大内義隆 (36)陶晴賢 (22)杉重矩 (45)内藤興盛 (48)冷泉隆豊 (30)弘中隆兼 (33)大内晴持
毛利元就 (46)小早川正平 (20)益田藤兼 (14)福島源三郎親弘
右田弥四郎
毛利隆元 (20)渡辺通 (32)LOSE
赤穴城を落とした大内義隆は勢いに乗じ、天文12年(1543年)3月、尼子晴久の居城である出雲の月山富田城に攻撃を開始する。
大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。
また、義隆の養嗣子の大内晴持も併せて出陣していた。
毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。
しかし、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に失敗したり、出陣して1年を過ぎていた大勢の士気は下がっていたり、城攻めは難航する。
そして4月末には、尼子方から大内方に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。
城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。
5月7日、劣勢が明白となった大内軍は撤退を開始し、出雲意宇郡出雲浦へ退いた。
尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。
このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。
義隆は宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月25日に山口に帰還する。
しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。
殿を命じられていた毛利軍は、沼田小早川正平らが討死するなど過酷を強いられながら安芸への撤退を続けるも、石見の山吹城から繰り出された尼子軍の追撃によって、石見国の大江坂七曲りで元就と嫡子の隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。
この時、毛利家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、内藤九郎右衛門元茂・波多野源兵衛・井上与三右衛門元有・井上源左衛門・三戸与五郎・三戸小三郎ら7人が囮役となり追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。
現在この毛利元就が九死に一生を得た場所は、七騎坂(島根県大田市温泉津町小浜)と呼ばれている。
吉田郡山城に無事帰還した元就は、渡辺通の献身に感動し、通の子・渡辺長を股肱の臣として重用している。
寵愛していた大内晴持が船の転覆により溺死したことで、義隆はそれ以降政治に対する意欲がなくなり、一方で尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ最盛期を迎える。
この遠征は1年4ヶ月にも及んだ挙句敗戦し、大内氏衰退の一因となった。
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須々万沼城の戦い(すすまぬまじょうのたたかい) [毛利元就の周防・長門平定]
1557年2月28日 ~ 3月3日
山口県周南市須々万本郷
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松山城の戦い(まつやまじょうのたたかい) [毛利元就と大友宗麟]
1562年9月 ~ 1563年1月27日
福岡県京都郡苅田町松山
永禄5年(1562年)9月、大友宗麟は毛利元就による筑前への連絡を断つ目的で尼子義久から出陣の要請を受けた。
宗麟は豊前に戸次鑑連(立花道雪)や吉弘鑑理らを派遣し、元就の家臣の勇将・天野隆重、内藤就藤、毛利元種・元員や杉氏の一族である杉重良が守る苅田松山城を包囲させた。
これに対し元就は、翌永禄6年(1563年)正月に、子の毛利隆元と小早川隆景らの大軍を周防府中(防府)に送り込んで松山城攻略の指揮をさせる。
正月27日の決戦で毛利方が勝利をおさめると、永禄7年(1564年)に第13代将軍足利義輝の仲介を受け入れて、大友氏と毛利氏は和睦し松山城は大友氏に引き渡された。
その後大友方の長野祐盛が松山城に入った。
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