武将名鑑【新信長の野望】
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)
土佐国の戦国大名。
長宗我部元親 の能力値 | |||||
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統率
武将が出撃部隊の主将を務めた際、部隊兵数に影響。 |
651 (7 位) | ||||
武勇
武将が出撃部隊の先鋒を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
441 (29 位) | ||||
智略
武将が出撃部隊の参謀を務めた場合、部隊の攻防バフに影響。 |
450 (27 位) | ||||
内政
武将委任時の修復効果と所属部隊の採集効率に影響。 |
312 (30 位) | ||||
合計 | 1854 (9 位)84人中 | ||||
戦闘力 | 33482 |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 土佐の国人から戦国大名となり、勇猛な一領具足を率いて数十年で四国を統一、あだ名は「土佐の出来人」。 | ||||||||||
タイプ | 統 | ||||||||||
適正 | 主将 | ||||||||||
兵科 | 槍兵 | ||||||||||
逸話 | |||||||||||
山﨑の戦いの後、明智光秀に使えていた斎藤利三の娘・斉藤福を庇護する。後者は後に家光の乳母「春日局」となる。 | |||||||||||
コメント | |||||||||||
統率が高いため、最大指揮兵力が多い。 自槍兵部隊の防御力をUP。 偶数ターン、防御力が高い敵部隊の防御力をDOWN、ダメージを与える奥義が強い。 |
長宗我部元親が登場する合戦
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長浜表の戦い(ながはまおもてのたたかい) [長宗我部元親の土佐平定]
1560年5月27日 ~ 27日
高知県高知市長浜周辺
弘治元年(1555)頃から土佐中央部の支配をめぐって土佐七雄の長宗我部国親と本山茂辰は争うようになっていた。
国親は本山領への侵攻を画策するも、本山方の前線にあった長浜城の守りが堅くなかなか攻めきれずにいた。
しかし長浜城の城門が経年劣化により建て替えの必要が出てきて、本山茂辰は築城技術に長けていた福留右馬丞(親政)を雇って修繕を命じた。
実は福留右馬丞はかつて長宗我部国親に仕えており、この報を聞いた国親は、福留右馬丞に帰参を許し所領を与える約束で内応させた。
そして永禄3年(1560年)5月27日、国親は大窪美作守が守る土佐長浜城を夜襲した。
福留右馬丞の手引きで城門を突破すると、城兵は無抵抗で城を明け渡した。
本山茂辰は長浜城が攻撃された知らせを聞き、長浜城を救援するため居城の本山城から出陣する。
翌28日朝、長宗我部軍は長浜城から南の慶雲寺に出陣し、一方の本山軍はその西の日出野に陣を構え、午前10時頃から両軍は長浜表で激突する(戸ノ本の戦い)。
当初は数で勝る本山軍が優勢だったが、乱戦の末長宗我部軍が押し返し、本山軍は浦戸城へ退く。
長宗我部軍は追撃し浦戸城を包囲するも、国親が急病のため数日後に退却した。
長宗我部国親の嫡男・元親は、この戸ノ本の戦いが22歳での遅い初陣であった。
元親は幼少の頃、長身だが色白で大人しかったため「姫若子」揶揄されるほど虚弱だった。
初陣前に家臣の秦泉寺泰惟(豊後)から槍の使い方と大将の行動の指導を受ける有様であった。
秦泉寺泰惟(じんぜんじやすこれ)は何をした人?長宗我部元親の才能を開花させた人【マイナー武将列伝】
しかしいざ戦闘が開始されると、元親は50騎を率いて70余の首を上げ、自らも騎馬武者を2人討ち取るという戦いぶりを見せた。
さらに元親は勝戦の余勢を駆り、国親らの制止を振り切って本山方の支城・潮江城を無人と踏んで突入し、城を奪取した。
このめまぐるしい活躍により、元親はそれ以後「鬼若子」「出来人」と畏怖されるようになったという。
元親の弟の親貞もこの戦いで初陣を飾っている。
この戦いに敗れた本山茂辰は、こののち長浜城と浦戸城を国親によって攻略され衰退の途を辿った。
急病を発した国親は、岡豊城での治療も功を奏せず間もなく死去する。
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潮江城の戦い(うしおえじょうのたたかい) [長宗我部元親の土佐平定]
1560年6月25日
高知県高知市筆山町
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朝倉城の戦い(あさくらじょうのたたかい) [長宗我部元親の土佐平定]
1562年9月16日 ~ 18日
高知県高知市朝倉・鴨部
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吉良峰城の戦い(きらみねじょうのたたかい) [長宗我部元親の土佐平定]
1563年3月
高知県高知市春野町弘岡上
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瓜生野城の戦い(うりうのじょうのたたかい) [長宗我部元親の土佐平定]
1568年
高知県長岡郡本山町瓜生野
長宗我部元親による攻勢を受け続けた本山茂辰は、永禄7年(1564年)、ついに本城であった本山城も捨て本山氏最期の拠点である瓜生野城に退く。
元親は瓜生野城を攻撃したものの、城を落とすことはできなかった。
貞茂は元親に降伏すると、元親に気に入られて偏諱を受け親茂と改める。
さらに一門衆に加えられ、元親の嫡男・長宗我部信親の家老として仕えた。
その後の本山親茂は、長宗我部氏の伊予進出で活躍し、戸次川の戦いで討死している。
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安芸城の戦い(あきじょうのたたかい) [長宗我部元親の土佐平定]
1569年7月 ~ 8月11日
高知県安芸市土居
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姫野々城の戦い(ひめののじょうのたたかい) [長宗我部元親の土佐平定]
1571年
高知県高岡郡津野町姫野々
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渡川の戦い(わたりがわのたたかい) [長宗我部元親の土佐平定]
1575年7月
高知県四万十市市具同一帯
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海部城の戦い(かいふじょうのたたかい) [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1575年8月
徳島県海部郡海陽町
元亀2年(1571年)、長宗我部元親の弟・島親益が病気療養のために30余人の家来とともに有馬温泉に向かった。
途中突風が出たため、船を海部城下の那佐湾に入れた。
怪しい船が泊っているとの急報を受けた海部城主の海部友光は、手勢100余人を率いて親益の船を襲って親益を殺してしまう。その4年後の天正3年(1575年)8月、元親は弟の仇を討つという名目で5000の軍勢をもって海部城を攻撃した。
三好元長の女婿にあたる友光は、鉄砲の名手である栗原伊賀右衛門らを指揮して防戦に努めたが落城し、友光は紀伊国の縁者を頼って落ち延びたと伝えられる。 -
白地城の戦い(はくちじょうのたたかい) [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1577年2月
徳島県三好市池田町白地
阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐の長宗我部氏が台頭すると、天正3年(1575年)8月、四国の中央に位置する阿波白地城は四国統一を目指す長宗我部元親に攻められた。
三好方の白地城主である大西覚養は弟の大西頼包を人質にだして一旦降伏した。
しかし三好氏が織田氏に援軍を頼み長宗我部氏と対立姿勢を表明すると、大西覚養は三好笑岩の求めに応じて、長宗我部氏との和議を破った。
それにより長宗我部元親は、阿波の三好軍を破り、天正5年(1577年)2月に白地城の支城である田尾城をわずか2日で攻め落とした。
大西覚養は讃岐麻城に落ちのびることになったのである。こののち元親は、奪取した白地城を阿波讃岐・伊予平定の拠点としている。
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重清城の戦い(しげきよじょうのたたかい) [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1578年1月
徳島県美馬市美馬町字城
天正6年(1578年)正月、阿波に侵入した長宗我部元親は、三好氏に従う小笠原長政が守る阿波重清城を攻めた。
このとき先陣を命じられたのは、大西覚養から人質に出されていた覚養の弟・大西頼包である。頼包と従兄弟の中鳥城主・久米形馬は、重清城を訪問し降伏を勧告する和談の途中で、城主の小笠原長政とその子らを謀殺した。
重清城を落とすと、出陣してきた十河(三好)存保の反撃により一旦城を奪還されるが、再度長宗我部軍が侵攻し重清城を落とし入れた。
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岩倉城の戦い(いわくらじょうのたたかい) [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1578年1月
徳島県美馬市脇町岩倉
天正6年(1578年)正月、阿波に侵入した長宗我部元親は織田信長に重用されて畿内で活躍していた三好康長(笑岩)の属城である阿波岩倉城に攻め寄せる。
岩倉城は、康長の子の康俊が在城して守備していたが、長宗我部勢の猛攻を防ぎきれず、康俊は実子を人質にだして降伏した。
こののち天正10年(1582年)、康俊は信長の四国攻めに呼応して元親に反旗を翻すが、本能寺の変によって遠征が中止になると再び長宗我部勢(香宗我部親泰)に攻められ、城を捨てて逃亡したとも、この時に討死したともいわれている。
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三瀧城の戦い(みたきじょうのたたかい) [長宗我部元親の伊予平定]
1580年12月 ~ 1581年1月6日
愛媛県西予市城川町窪野
伊予三瀧城主の北之川親安は長宗我部氏から厚遇され元親の娘婿である波川清宗の娘を妻に迎えたが、清宗は過去に失態を行い蟄居の身で、その不満から天正8年(1580年)12月に主家の長宗我部氏に謀反を起こす。
親安はこの謀反に加担していない旨を起請文にしたためるが、元親に「謀反加担は明白なのに起請文を寄越したからには起請の罰が与えられる」との強引な理由で、伊予に侵攻した長宗我部家臣の久武親直に居城・三滝城を攻められ戦死した。なおこの時に子の北之川正親は岡豊城で斬殺されている。
子の北之川宗親は生き延びて姓を「紀」に改め、土佐国で庄屋紀家の祖となっている。 -
一宮城の戦い(いちのみやじょうのたたかい) [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1581年7月 ~ 9月8日
徳島県徳島市一宮町
阿波勝瑞城の三好長治と対立していた一宮城主・一宮(小笠原)成助は、 細川真之に加勢して荒田野の戦いで三好長治を討った。
その後も長治の跡を継いで勝瑞城に入った十河存保と抗争を繰り広げ、天正8年(1580年)正月には存保を勝瑞城から讃岐十河城に追い払った。
翌天正9年(1581年)7月、織田信長と結び勝瑞城を回復した存保に一宮城が攻められたとき、長宗我部元親は家臣・久武親直らを後詰に送り十河勢を勝瑞に退却させた。
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中富川の戦い(なかとみがわのたたかい) [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1582年8月28日
徳島県板野郡藍住町・板野町一帯
長宗我部元親像
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勝瑞城の戦い(しょうずいじょうのたたかい) [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1582年9月21日
徳島県板野郡藍住町勝瑞
天正10年(1582年)9月、中富川の戦いに勝利した長宗我部元親は、勢いに乗じて2万の軍勢で勝瑞城に攻め寄せた。
勝瑞城はもともと阿波守護細川氏の守護所で、天文22年(1553年)に細川持隆が家臣・三好義賢に謀殺されたあとは、三好氏の居城となっており、このときは十河存之が城代として城を守り中富川の戦いの戦いの敗戦後、十河存保らが入っていた。
9月5日に大雨が5日間降り続き、吉野川本流と中富川が氾濫し板野平野一帯が洪水で湖化して、長宗我部軍は民家の屋根や木の上に登り避難した。
この状況をみた十河軍は、城兵を小舟に乗せ、屋根の下や木の下から長柄の槍で串刺しにしていった。長宗我部軍は本陣を光勝院に移し、板野平野の水が引き下がると陣形を立て直し勝瑞城を攻撃した。
勝瑞城の内外で白兵戦となり、両軍でかなりの損害が出た。
本陣で指揮した十河存保は、玉砕覚悟で敵本陣へ攻勢をかけ最後の決戦にのぞもうとしたが、側近であった東村備後守の諫言を容れて勝瑞城へ引き揚げた。
21日に存保は降伏の誓詞を元親に入れ、勝瑞城の明け渡しを条件に存保に免罪をうけ、讃岐国の虎丸城へ退去した。
この戦いで両軍の死者数の合計は1500名にのぼる。
戦いの後、阿波の諸城はほとんどが長宗我部氏に降り、勝瑞城は元親によって破却されている。
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十河城の戦い(そごうじょうのたたかい) [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1582年10月 ~ 1584年6月11日
香川県高松市十川東町
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引田表の戦い(ひきたおもてのたたかい) [長宗我部元親の阿波・讃岐平定]
1583年4月21日 ~ 22日
香川県東かがわ市引田一帯
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恵良の戦い(えりょうのたたかい) [長宗我部元親の伊予平定]
1584年3月17日
愛媛県松山市上難波
長宗我部元親の伊予侵入に対し、毛利輝元は姻戚にあたる河野氏を支援するため軍勢を頻繁に伊予へ送った。
天正12年(1584年)3月17日、輝元の命により伊予へ渡海した毛利氏の家臣・宍戸元孝(元秀)は、伊予恵良で長宗我部勢と衝突する。
この戦いにおける勝敗ははっきりしないが、こののちも毛利氏と長宗我部氏は恵良で衝突している。 -
黒瀬城の戦い(くろせじょうのたたかい) [長宗我部元親の伊予平定]
1584年10月19日
愛媛県西予市宇和町卯之町
天正9年(1581年)1月11日、北之川親安を滅ぼした長宗我部元親は、次に西園寺公広の居城である黒瀬城を攻撃させ城下を焼失させたが、西園寺公広は降伏せず引き上げた。
陣容を整え直した元親は、天正12年(1584年)再び黒瀬城を攻撃し、西園寺公広は長宗我部氏に巨従した。
これにより元親は伊予のほとんどを平定したものの、縁戚にあたる毛利氏の支援を受けた伊予湯築城主の河野氏はまだ残っていた。
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戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい) [豊臣秀吉の九州平定]
1586年12月12日 ~ 13日
大分県大分市上戸次・中戸次一帯
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下田城の戦い(しもだじょうのたたかい) [豊臣秀吉の関東平定]
1590年4月1日 ~ 23日
静岡県下田市三丁目
豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆半島における北条水軍最大の拠点であった伊豆下田城攻めが始まる。
豊臣水軍の脇坂安治の1300余・長宗我部元親の2500余・加藤嘉明隊・九鬼嘉隆の1500余らの大軍は、2月26日に駿河の清栄湊に寄港したあと、伊豆下田沖に向かい、4月1日に下田城を攻撃した。
城を守っていた伊豆衆筆頭の清水康英は、嫡子の政勝、弟の英吉や家臣の高橋丹波守らの城兵600余で籠城し、豊臣水軍1万4000余からの攻撃を50日余り凌いだが、4月23日に脇坂安治、安国寺恵瓊らと起請文を交わし、城を開けて降伏した。
降伏した康英は、一命を助けられて下田城を退去した。
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