武将名鑑【覇道】
里見義堯(さとみよしたか)
里見義堯(さとみよしたか)
里見義堯 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
671 (27 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
560 (35 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
646 (22 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
511 (38 位) | ||||
合計 | 2388 (32 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 4171 | ||||
天賦 | 800 | ||||
s | |||||
a | |||||
c |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 房総の戦国大名。父・実堯を殺した従兄弟・義豊を討ち、当主となる。国府台合戦では北条氏康に敗れたが、その後も房総に勢力を広げ、北条家と戦い続けた。 | ||||||||||
声優(CV) | 鷲見昂大 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
仁者の沈勇 | 自身と一門衆を含む味方2部隊の知略を30%上昇 対象とする敵1部隊に知略200%の攻撃 |
||||||||||
里見義堯の人柄と勇気は敵である後北条氏からも認められており、「仁者必ず勇あり」と称えられていたという。 |
技能
地利
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 自大名家の領土内で戦闘する場合、部隊の武勇+4%、知略+4% |
Ⅱ | 自大名家の領土内で戦闘する場合、部隊の武勇+7%、知略+7% |
Ⅲ | 自大名家の領土内で戦闘する場合、部隊の武勇+11%、知略+11% |
Ⅳ | 自大名家の領土内で戦闘する場合、部隊の武勇+17%、知略+17% |
Ⅴ | 自大名家の領土内で戦闘する場合、部隊の武勇+25%、知略+25% |
兵心
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 兵舎に任命した場合、任命効果+4% |
Ⅱ | 兵舎に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅲ | 兵舎に任命した場合、任命効果+12% |
豪勇
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 矢倉に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅱ | 矢倉に任命した場合、任命効果+16% |
Ⅲ | 矢倉に任命した場合、任命効果+24% |
秘伝
足軽加勢
条件 : 足軽兵科の副将に配置して、攻城戦や砦戦に出陣する
系統 : 戦法
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 編制した部隊の攻撃+6% 編制した部隊の破壊+6% |
Ⅱ | 編制した部隊の攻撃+8% 編制した部隊の破壊+8% |
Ⅲ | 編制した部隊の攻撃+10% 編制した部隊の破壊+10% |
Ⅳ | 編制した部隊の攻撃+12% 編制した部隊の破壊+12% |
Ⅴ | 編制した部隊の攻撃+14% 編制した部隊の破壊+14% |
里見義堯が登場する合戦
-
犬懸の戦い(いぬかけのたたかい) [古河公方と小弓公方]
1534年4月6日
千葉県南房総市犬掛
天文2年(1533年)7月、里見氏第4代当主の里見義豊は、叔父の里見実堯と側近の正木通綱が上総進出を狙う小田原城の北条氏綱と接近したため安房稲村城で謀殺した。
これにより謀殺された実堯の子の義堯(義豊の従兄弟)や正木通綱の息子の正木時茂・時忠らは上総真里谷城の武田信隆を頼って落ちのびていた。
信隆の属城である上総造海城に拠った義堯は、相模の北条氏綱の支援を得て義豊に抵抗を続ける。
天文3年(1534年)4月6日、信隆と対立するその父の武田信保と結んだ義豊と、信隆・氏綱の加勢を得た義堯とが安房の犬懸で衝突した。
この戦いで義豊が討たれ、義堯が里見氏の家督を継いだ。
-
峰上城の戦い(みねがみじょうのたたかい) [古河公方と小弓公方]
1537年5月16日
千葉県富津市上後
天文6年(1537年)5月、真里谷武田信隆は、異母弟の信応を排斥すべく、上総の峰上城と造海城に拠って挙兵した。
信応を支援する小弓公方足利義明が峰上城を攻撃すると、信隆は造海城に籠城した。
それまで信隆に通じていた里見義堯は関東に勢力を拡大していた北条氏綱に単独で挑むことは難しいと考え小弓公方の足利義明と同盟を結び信応方に寝返り、信隆の造海城を攻撃する。
和歌を百首詠むことを条件に開城した信隆は、相模の北条氏綱を頼って落ちのび武蔵金沢で庇護され隠居生活を送った。
これにより小弓公方を中心とする武田・里見氏らと、北条氏との対立が決定的となる。
-
国府台の戦い(こうのだいのたたかい) [古河公方と小弓公方]
1538年10月5日 ~ 7日
千葉県市川市国府台
-
三浦沖の戦い(みうらおきのたたかい) [古河公方と上杉氏・北条氏]
1556年3月10日
神奈川県三浦市
北条氏綱が天文10年(1541年)に死去したあとも、子の氏康が引き続き、江戸湾の制海権を握るため上総に進出していた久留里城主の里見義堯に対する攻勢を強めていた。
弘治2年(1556年)3月10日、義堯は氏康の上総侵攻の機先を制するため、子の義弘を総大将に正木時茂・土岐頼定ら5000余の軍勢と軍船数十艘で三浦沖まで渡海した。
これに対し北条側は、氏康や息子の氏政らが城ヶ島に布陣し、里見勢を迎え撃つ。
この海戦で、里見勢は上陸には成功したものの、三浦半島を制圧するに至らずに上総へ退却した。
里見義堯が登場する記事一覧
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