武将名鑑【覇道】
山県昌景(やまがたまさかげ)
山県昌景(やまがたまさかげ)
山県昌景 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
765 (13 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
807 (2 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
619 (25 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
577 (23 位) | ||||
合計 | 2768 (13 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 4916 | ||||
天賦 | 850 | ||||
b | |||||
s | |||||
c |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
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レアリティ | 武田家臣。武田四名神の1人。兄・飯富虎昌と同様、軍装を赤で統一。内政・軍事・外交全般で主君・信玄を補佐した。長篠合戦で全身に銃弾を浴び戦死した。 | ||||||||||
声優(CV) | 柳田淳一 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
赤備特攻 | 対象とする敵1部隊に武勇250%の攻撃 対象を含む敵3部隊に恐慌3%を付与 |
||||||||||
武具を赤色で統一する「赤備え」を最初に率いたのは甲斐武田氏である。 武田氏の家臣の山県昌景は、初代の飯富虎昌から「赤備え」の精鋭部隊を引き継いだ。 |
技能
早駆
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 部隊の機動+4% |
Ⅱ | 部隊の機動+7% |
Ⅲ | 部隊の機動+11% |
Ⅳ | 部隊の機動+17% |
Ⅴ | 部隊の機動+25% |
警戒
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 矢倉に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅱ | 矢倉に任命した場合、任命効果+16% |
Ⅲ | 矢倉に任命した場合、任命効果+24% |
突貫
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 部隊の会心威力+8% |
Ⅱ | 部隊の会心威力+12% |
Ⅲ | 部隊の会心威力+18% |
秘伝
勇烈無比
条件 : 大将か攻撃(左)で、繋がった配置の武将と同じ縁が合計2以上
系統 : 戦法
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 習得した武将の戦法の攻撃威力+20% 習得した武将の戦法による恐慌の効果時間+2秒 |
Ⅱ | 習得した武将の戦法の攻撃威力+30% 習得した武将の戦法による恐慌の効果時間+2秒 |
Ⅲ | 習得した武将の戦法の攻撃威力+40% 習得した武将の戦法による恐慌の効果時間+2秒 |
Ⅳ | 習得した武将の戦法の攻撃威力+50% 習得した武将の戦法による恐慌の効果時間+2秒 |
Ⅴ | 習得した武将の戦法の攻撃威力+60% 習得した武将の戦法による恐慌の効果時間+2秒 |
山県昌景が登場する合戦
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三増峠の戦い(みませとうげのたたかい) [武田信玄の相模侵攻]
1569年10月6日
神奈川県愛甲郡愛川町三増
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韮山城の戦い(にらやまじょうのたたかい) [武田信玄の駿河平定]
1570年8月9日
静岡県伊豆の国市韮山韮山
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大野田城の戦い(おおのだじょうのたたかい) [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1571年4月28日 ~ 29日
愛知県新城市野田
足助城を落とした武田信玄は、奥三河の国衆を降しながら、作手城主・奥平貞能と田峯城主・菅沼定忠を案内役として菅沼定盈が守る大野田城に向かう。
信玄は武田信豊・馬場信房・秋山信友らを家康の押さえとし、山県昌景・小笠原信嶺・相木市兵衛らに対して大野田城攻めを命じた。
4月28日の夜半、案内役の菅沼定忠は、大野田城主の菅沼定盈と同族であったため、悲劇を最小限に抑えようとしたのか道に迷ったふりをして大野田城から西北に5kmほどの本宮山に出てしまった。
菅沼定盈が武田勢の来襲を知ったのは、武田勢がちょうど本宮山に居た頃であった。
城内では直ちに軍議が開かれたが、籠城するか打って出るか決定しないまま夜が明けてしまった。
そこに武田勢の目にしたこともない大軍を目撃したため、城に火を放って一目散に西郷方面へ退去した。
武田勢は、定盈を追撃することはせず吉田城に向かった。
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明智城の戦い(あけちじょうのたたかい) [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1574年2月5日
岐阜県恵那市明智町
天正2年(1574年)2月、武田勝頼は織田信長を圧迫するため東濃に15000余の軍勢で出陣し、遠山氏の重要な拠点であった明智城を攻撃する。
このころ明智城は、元亀3年 (1572年) の上村の戦いで城主の遠山景行とその子の景玄が敗死していたため、景玄の子の遠山一行と叔父の遠山友治ら500の兵が守っていた。
明智城の重要性を理解していた織田信長は、2月5日に嫡男の信忠、明智光秀や美濃の諸将(池田・蜂屋・河尻・森・塚本)など尾張・美濃の軍勢3万の兵を率いて出陣したが、武田方の信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったという。
織田軍は明智城を赴援できず、明智城の開城をみて2月24日に岐阜に帰陣した。
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設楽原の戦い(したらがはらのたたかい) [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1575年5月21日
愛知県新城市長篠一帯
設楽原古戦場 馬防柵
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