武将名鑑【覇道】
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)
長宗我部盛親 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
433 (74 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
421 (88 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
236 (103 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
191 (108 位) | ||||
合計 | 1281 (93 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 2491 | ||||
天賦 | 550 | ||||
a | |||||
b | |||||
c |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 元親の四男。関ヶ原合戦で西軍に属して改易され、京で寺子屋を開く。のち大坂城に入り、藤堂高虎軍を壊滅させるなど活躍したが、大坂落城後、斬首された。 | ||||||||||
声優(CV) | 櫻井トオル | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
鼓舞 | 自身1部隊の防御、知略を10%上昇 |
技能
巡見
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 石垣に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅱ | 石垣に任命した場合、任命効果+16% |
Ⅲ | 石垣に任命した場合、任命効果+24% |
秘伝
恐慌への警戒
条件 : 与力に配置する
系統 : 部隊
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 編制した部隊の受けた恐慌の効果時間-8% |
Ⅱ | 編制した部隊の受けた恐慌の効果時間-11% |
Ⅲ | 編制した部隊の受けた恐慌の効果時間-14% |
Ⅳ | 編制した部隊の受けた恐慌の効果時間-17% |
Ⅴ | 編制した部隊の受けた恐慌の効果時間-20% |
長宗我部盛親が登場する合戦
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伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい) [関ヶ原の戦い]
1600年7月19日 ~ 8月1日
京都府京都市伏見区桃山町
宇喜多秀家 (28)石田三成 (40)前田玄以 (61)本多正信 (62)鈴木重朝 (39)島津義弘 (65)小早川秀秋 (18)大谷吉継 (41)毛利秀元 (21)吉川広家 (39)小西行長 (41)長宗我部盛親 (25)鍋島勝茂 (20)長束正家 (44)WIN
LOSE
伏見城
慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は大坂城を出て山城伏見城に移動し、6月18日には守将の鳥居元忠と別れの宴を行った後、上杉討伐のため会津に向かった。
一方、大坂城の前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は、7月17日に家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布する。
これに先立つ7月15日の時点で、伏見城では鳥居元忠らが籠城を始めており、西軍はこれに対する攻撃の準備を行う。
7月19日、西軍の宇喜多秀家の軍勢による攻撃が本格的に始まった。
伏見城は初めは反撃して前田玄以や長束正家の屋敷を焼き払うなどするが、その後は攻撃側からの大量の鉄砲攻撃にさらされ、29日には、石田三成の4万余の大軍で包囲されてしまう。
攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった。
しかし、孤立した城は8月1日に落城する。
鳥居元忠は鉄砲頭の鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ、他にも内藤家長・元長父子、松平家忠、上林竹庵ら以下800人が討ち死にした。
この戦いは9月15日に行われる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城は落城するも、少数の兵で西軍の大軍を10日以上も足止めすることで、西軍の美濃・伊勢方面への展開が大きく遅れる原因となった。
また、島津義弘と小早川秀秋は元々東軍に味方するつもりであったが、城側に入城の意思を示したときに拒否され、結局西軍に参加して城攻めに加わっている。
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松坂城の戦い(まつさかじょうのたたかい) [関ヶ原の戦い]
1600年8月24日
三重県松阪市殿町
伏見城を落とした西軍の毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・鍋島勝茂・龍造寺高原・長宗我部盛親ら3万余の軍勢は、伊勢に侵攻し古田重勝が守る松坂城を攻撃する。
このとき伊勢で東軍に属していたのは、重勝のほかは安濃津城の富田信高や上野城の分部光嘉らがいた。
松坂城内は兵や町人を合わせて2000人ほどの寡兵であった。
戦いは8月23日に始まり、24日に総攻撃が行われた。
大軍を前にした重勝は西軍に降伏したが、関ヶ原の戦い後、西軍を引き止めた功により2万石を加増され松坂城5万5000石の大名となっている。
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安濃津城の戦い(あのつじょうのたたかい) [関ヶ原の戦い]
1600年8月24日 ~ 25日
三重県津市丸之内
安濃津城(津城)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである安濃津城の戦いが起こります。
富田信高(安濃津城主)、分部光嘉(伊勢上野城主)、古田重勝(松阪城主)、稲葉道通(岩出城主)ら伊勢の東軍の諸将らは徳川家康の会津征伐に従軍していました。西軍の大軍が伊賀方面から伊勢に進出してきたため、分部は寡兵で自城を守り切れないと判断し、富田の安濃津城にて共同で西軍を迎えることとします。
富田の兵、分部の兵、更に古田重勝からの援軍500を加えても、安濃津城に籠城する東軍は1,700という劣勢でした。
対する毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された西軍は総勢3万にのぼります。富田、分部らの籠城方は奮戦するも後詰・救援の見込みもないため、8月25日に高野山金剛峯寺の木食応其が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、安濃津城は開城します。
信高、光嘉は共に一身田の専修寺へ退き、剃髪して高野山にのぼった。
しかし、関ヶ原の戦い後、西軍を釘付けした功を認められた信高は、2万石を加増されて安濃津に戻ることができた。 -
真田丸の戦い(さなだまるのたたかい) [大坂冬の陣]
1614年12月4日
大阪府大阪市天王寺区真田山
LOSE
豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などの河川堀の役目をし守られていたが、地続きとなる南方だけは空堀のみであった。
そのため豊臣方は、手薄である南面を防御するため、惣構の外に出丸を築いていた。
真田信繁(幸村)によって築かれたので、この出丸を俗に真田丸という。豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、徳川幕府軍は大坂城を包囲した。
真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。
真田丸には真田信繁指揮下の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成、後藤又兵衛、長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。12月2日、徳川家康は茶臼山陣城(大塚城)に出向き巡検を行い、徳川秀忠も出向いた後帰陣した(合戦後に家康は茶臼山へ、秀忠は岡山へ本陣を移した)。家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示した。
真田丸の前方には篠山と呼ばれる丘があり、真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害した。12月3日、大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚したため、南条は城内で切腹させられた。
しかし豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いた。12月4日、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。
前田勢の先鋒・本多政重、山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。
夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発した。
前田勢は挑発に乗り、真田丸に突撃。
真田勢は前田勢が城壁に十分近づいた所に火縄銃で射撃を行う。
前田利常は、将達が命令なく攻撃して軍が損害を被ったと怒り、兵を撤収させようとした。前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。
この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。
豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。これらの惨状を知った家康は退却を命じた。
しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、15時をすぎようやく完了した。退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。
この戦いで徳川方は数千人が討ち取られたという。 -
八尾の戦い(やおのたたかい) [大坂夏の陣]
1615年5月6日
大阪府八尾市一帯
南下する徳川本隊を攻撃するべく木村重成とともに大坂城を打って出た長宗我部盛親は、八尾に布陣しました。
徳川方の先鋒である藤堂高虎は、一隊で若江の木村重成を牽制しつつ、主力をもって長宗我部隊を攻撃します。
藤堂勢の中備を務める藤堂高吉は萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒・吉田重親を攻撃します。吉田は本隊に対し攻撃を受けている旨を伝令し、応戦したが壊滅し吉田は討死。
藤堂勢の左先鋒の藤堂高刑・桑名吉成らは道明寺へ向かう先頭にあったが、転進して玉串川を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫ります。
藤堂高虎の旗本の藤堂氏勝もそれに続きます。吉田の知らせをうけた長宗我部盛親は、騎馬武者もすべて下馬させ、槍を持たせて長瀬川の堤防の上に伏せさせ迎撃の体勢を取った。
藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせたため藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑・桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は致命傷を負い退却中に死亡します。
藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され撃退。
旧主と戦った中内源兵衛も討死し、260余を討ち取られた藤堂勢は窮地に陥る。正午頃まで戦闘は続くも、若江の木村重成の敗報が届いたため長宗我部勢は孤立を避けるため坂城へ撤退を始めます。
藤堂勢は追撃し、殿を務めていた増田盛次を討ち取った。
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