武将名鑑【覇道】
柴田勝家(しばたかついえ)
柴田勝家(しばたかついえ)
柴田勝家 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
部隊の攻撃や防御を定め、通常攻撃のダメージに影響 |
765 (11 位) | ||||
武勇
部隊の武勇を定め、武勇戦法ダメージ、状態変化率に影響 |
789 (4 位) | ||||
知略
部隊の知略を定め、知略戦法のダメージ、状態変化率に影響 |
552 (35 位) | ||||
政治
部隊の破壊を定め、要所や城門などへのダメージに影響 |
569 (26 位) | ||||
合計 | 2675 (17 位)105人中 | ||||
戦闘力 | 4797 | ||||
天賦 | 850 | ||||
b | |||||
s | |||||
b |
その他のデータ | 歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
レアリティ | 織田家臣。「かかれ柴田」の異名をとった猛将。北陸方面軍の総大将を務めた。本能寺の変後、羽柴秀吉と争い賤ヶ岳合戦で敗れ、居城・北庄城で自害した。 | ||||||||||
声優(CV) | 島田岳洋 | ||||||||||
戦法 | |||||||||||
鬼柴田 | 対象を含む敵3部隊に武勇200%の攻撃をし、動揺を付与 | ||||||||||
柴田勝家は、戦場における突進力では随一とその秀でた武勇から「鬼柴田」と呼ばれ恐れられていた。 |
技能
豪勇
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 矢倉に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅱ | 矢倉に任命した場合、任命効果+16% |
Ⅲ | 矢倉に任命した場合、任命効果+24% |
警戒
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 矢倉に任命した場合、任命効果+8% |
Ⅱ | 矢倉に任命した場合、任命効果+16% |
Ⅲ | 矢倉に任命した場合、任命効果+24% |
発奮
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 自部隊にかかる有利状態や能力強化の効果時間+10% |
Ⅱ | 自部隊にかかる有利状態や能力強化の効果時間+17% |
Ⅲ | 自部隊にかかる有利状態や能力強化の効果時間+25% |
秘伝
大胆不敵
条件 : 大将か攻撃(左)で、繋がった配置の武将と同じ縁が合計2以上
系統 : 戦法
効果レベル | 効果 |
---|---|
Ⅰ | 習得した武将の戦法の攻撃威力+20% 習得した武将の戦法による動揺の効果時間+2秒 |
Ⅱ | 習得した武将の戦法の攻撃威力+30% 習得した武将の戦法による動揺の効果時間+2秒 |
Ⅲ | 習得した武将の戦法の攻撃威力+40% 習得した武将の戦法による動揺の効果時間+2秒 |
Ⅳ | 習得した武将の戦法の攻撃威力+50% 習得した武将の戦法による動揺の効果時間+2秒 |
Ⅴ | 習得した武将の戦法の攻撃威力+60% 習得した武将の戦法による動揺の効果時間+2秒 |
柴田勝家が登場する合戦
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稲生の戦い(いのうのたたかい) [織田信長の尾張統一]
1556年8月24日
愛知県名古屋市西区塚町一帯
-
勝龍寺城の戦い(しょうりゅうじじょうのたたかい) [織田信長の上洛戦]
1568年9月26日 ~ 29日
京都府長岡京市神足
-
天筒山城の戦い(てづつやまじょうのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1570年4月25日
福井県敦賀市天筒町
元亀元年(1570年)4月25日、越前に入った織田信長は敦賀の妙顕寺に着陣すると、金ヶ崎城とその支城である天筒山城の攻略にとりかかった。
天筒山城は要害の地で、朝倉義景家臣の寺田采女正ら1500余の兵が籠城していたが、柴田勝家ら織田勢は樫曲に回り込み、湿地帯から攻め上がることで城内侵入した。
正攻法の突撃となったので、信長軍は森可成の嫡男・可隆が討死するなど多大の犠牲が出たものの、当日に落城した。
朝倉方の城兵は1300余が討死しており、ほとんど全滅だった。
天筒山城を落とした織田勢は、勢いに乗じて金ヶ崎城に向かった。
-
野洲川の戦い(やすがわのたたかい) [織田信長の南近江平定]
1570年6月4日
滋賀県野洲市乙窪一帯
-
太田口の戦い(おおたぐちのたたかい) [織田信長の長島一向一揆鎮圧]
1571年5月16日
岐阜県海津市南濃町太田
6月4日、信長は伊勢の長島(三重県桑名市)で起きていた一向一揆(伊勢長島一向一揆)を5万の兵を率いて鎮圧するために乗り出します。
織田軍は津島(愛知県津島市)に入り、本陣を構えました。そして、三方向から攻め寄せ、中筋口(桑名市の大鳥居城の辺り)から佐久間信盛、浅井新八、和田新介、中嶋豊後、山田三左衛門、長谷川丹波が進軍します。
多芸山(岐阜県養老町と大垣市上石津町にまたがる山)から大田口(岐阜県海津市南濃町)に向けては、柴田勝家、氏家卜全、稲葉一鉄、市橋長利、不破光治、伊賀平左衛門、塚本小大膳、丸毛長照、飯沼勘平が進軍しました。
8日、大田口の周辺に火を放っていた織田軍をめがけ、願証寺の一揆衆が弓と鉄砲で襲いかかります。
山中の細道で身動きがとれなくなった織田の部隊は乱れ、殿軍の柴田勝家が一揆衆と奮戦するも負傷し退却します。氏家卜全も必死に抵抗したが、一揆衆に囲まれて氏家の家臣もろとも全滅。大田口の合戦で織田軍は惨敗してしまったのである。
一揆衆は、小川村と志村(どちらも滋賀県東近江市)に引き返していきました。
信長の侵攻を防いだ4ヶ月後の元亀2年(1571年)6月6日、願証寺証意は35歳で急逝する。証意の急死を受けて跡を11歳の嫡男・願証寺顕忍が引き継ぐ事となった。
-
志村城の戦い(しむらじょうのたたかい) [織田信長の南近江平定]
1571年9月1日
滋賀県東近江市新宮町
元亀2年(1571年)9月1日、織田信長は佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・中川重政に六角氏の家臣である志村資則が守る志村城と小川祐忠の守る小川城の攻略を命じた。
力攻めにした柴田隊家臣たちは、670もの首級を上げ志村城を落城させました。
これを見た小川祐忠は戦わずに降伏した。その後、六角氏と結んだ本願寺の金森御坊に向かう。
-
石山砦の戦い(いしやまとりでのたたかい) [室町幕府の滅亡]
1573年2月24日 ~ 26日
滋賀県大津市石山寺
元亀4年(1576年)2月、織田信長に反旗を翻した足利義昭は、近江瀬田城主・山岡景隆の弟で園城寺(三井寺) 光浄院の山岡景友(暹慶)に信長の入京を阻止するよう命じます。
そのため山岡景友は急いで石山と今堅田に砦を築いた。これに対し2月20日、信長は家臣の柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆らを派遣し、24日に織田軍は勢田から琵琶湖を渡り石山砦を攻撃する。
石山砦には山岡景友が率いる伊賀衆・甲賀衆が守備していたが、未完成の砦での防戦を断念した山岡景友は26日に降伏して退去した。
-
鯰江城の戦い(なまずえじょうのたたかい) [織田信長の南近江平定]
1573年4月11日 ~ 9月4日
滋賀県東近江市なまず江町
野洲川の戦いに敗れたあとも、六角承禎・義治父子は織田信長に対する抵抗を続け、元亀4年(1573年)4月、百済寺の僧や一向宗門徒とともに鯰江貞景の居城である近江鯰江城に籠城し、空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施した。
これに対し、信長は4月11日、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、蒲生賢秀らに鯰江城を攻めさせた。
織田勢は鯰江城の周囲に井元城や中戸城等の城砦を築いて包囲するとともに、六角氏を支援していた湖東三山のひとつ百済寺を焼き討ちする。
六角父子は小谷城の落城をうけて鯰江城から脱出したらしく、信長の命を受けた柴田勝家の再度の侵攻により、9月4日に落城した。
鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、鯰江貞景の子・定春は豊臣秀吉に仕え大坂に所領を与えられ、大阪市城東区に鯰江の地名を残している。
-
槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい) [室町幕府の滅亡]
1573年7月18日
京都府宇治市槇島町
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刀禰坂の戦い(とねざかのたたかい) [織田信長の越前・北近江平定]
1573年8月13日
福井県敦賀市刀根
天正元年(1573年)織田信長が浅井長政・朝倉義景を滅ぼすため戦を仕掛けます。
信長は3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。まず浅井長政の小谷城が包囲されてしまいます。
朝倉義景は小谷城を救援するため大嶽砦に布陣するも、暴風雨の中織田勢に奇襲を行われ陥落していまいます。
織田勢は続いて朝倉勢が守る丁野山城も落とします。
朝倉勢は主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟り越前へ撤退を決断しました。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃します。
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀禰坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受ける。
余呉から刀禰坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上と言われる死者を出した。
朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主の朝倉景行や当時17歳の朝倉道景、朝倉景氏、朝倉景冬、といった一門衆を含め、朝倉氏の客将となっていた斎藤龍興や河合吉統、山崎吉家など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死しました。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。
これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し朝倉義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。 -
龍門寺城の戦い(りゅうもんじじょうのたたかい) [織田信長の越前一向一揆鎮圧]
1575年8月15日
福井県越前市本町
木ノ芽峠城や鉢伏城の戦いに敗れて越前府中に敗走した一向一揆勢は、すでに海路から府中に入っていた羽柴秀吉・明智光秀らに討ち取られてしまう。
8月15日の夜、織田勢は一揆勢の大将・三宅権之丞が守る府中の龍門寺城を奇襲して占拠すると、ここを信長の本陣とした。
こののち数万人の一向一揆勢が虐殺されたといい、信長自身が書状において「府中は死がい計にて、一円あき所なく」と報告している。 -
手取川の戦い(てどりがわのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1577年9月23日
石川県白山市美川南町・湊町周辺
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尾山御坊の戦い(おやまごぼうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1580年3月
石川県金沢市丸の内
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鳥越城の戦い(とりごえじょうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1580年11月17日
石川県白山市別宮町
加賀平定を進める柴田勢は3月に尾山御坊を落とすと、加賀一揆最後の地となった白山麓の鳥越城の攻略に取り掛かる。
城主の鈴木出羽守が守る鳥越城は、本願寺派の門徒が籠城していた。
天正8年(1580年)11月、柴田勝家・佐久間盛政らはこの鳥越城を包囲するが、城兵の抵抗が強くなかなか落城しなかった。
そこで勝家は偽りの和睦を結び、鈴木出羽守一族を松任城に呼び出して殺害したのである。
鈴木出羽守父子ら19人の首級は安土に送られ、ここに100年間にわたる本願寺の加賀支配に終止符が打たれた。
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魚津城の戦い(うおづじょうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1582年3月 ~ 6月3日
富山県魚津市本町
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富山城の戦い(とやまじょうのたたかい) [織田信長の北陸平定]
1582年3月11日
富山県富山市星井町
富山市役所から見た富山城
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天神山の陣(てんじんやまのじん) [織田信長の北陸平定]
1582年5月19日 ~ 27日
富山県魚津市小川寺
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賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい) [賤ヶ岳の戦い]
1583年4月20日 ~ 21日
滋賀県伊香郡余呉町柳ヶ瀬
賤ヶ岳から見下ろす余呉湖
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北庄城の戦い(きたのしょうじょうのたたかい) [賤ヶ岳の戦い]
1583年4月23日 ~ 24日
福井県福井市中央
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