武将名鑑【信長の野望 新生】
加藤清正(かとうきよまさ)
加藤清正(かとうきよまさ)
加藤清正 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
82 (101 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
89 (32 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
78 (191 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
70 (396 位) | ||||
合計 | 319 (70 位)2201人中 |
加藤清正 の基礎データ | |||||
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性別 | 男 | ||||
幼名 | 夜叉若 | ||||
仮名・通称 | 虎之助 虎之介 主計頭 | ||||
渾名 | 地震加藤 鬼将軍 肥後の虎 清正公さん | ||||
法号・戒名 | 浄池院殿永運日乗大居士 | ||||
父 | 加藤清忠 | ||||
母 | 伊都(鍛冶屋清兵衛の娘) | ||||
配偶者・正室 | 山崎片家の娘 | ||||
側室1 | 清浄院 | ||||
側室2 | 本覚院 | ||||
側室3 | 浄光院、正応院 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1562年 | 豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。朝鮮派兵で活躍し「虎加藤」の逸話を残す。秀吉死後は石田三成と対立、関ヶ原合戦で東軍に属し、肥後熊本52万石を得た。 | |||||||||
死亡年 | 1611年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
革新 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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乾坤 | 合戦で積極的に退き口を襲撃 | ||||||||||
攻勢 | 自部隊の攻撃上昇 | ||||||||||
修繕 | 所属城の耐久自然回復量上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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急襲 | 敵部隊の兵力減少 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 未登場 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 未登場 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 未登場 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 元服前 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 21 |
加藤清正が登場する合戦
-
冠山城の戦い [織田信長の中国平定]
1582年4月14日 ~ 25日
岡山県岡山市北区下足守
天正10年(1582年)3月、播磨姫路城を出陣して備前岡山城に着陣した羽柴秀吉は、備中高校城の清水宗治を勧降するが拒否されてしまう。
これにより高松城攻めを決めた秀吉は、秀吉率いる織田勢2万と宇喜多忠家率いる宇喜多勢1万で、4月14日、高松城の支城である備中冠山城を包囲した。
このとき城主・林重真は、清水宗治の娘を娶っており、備中半国を与えるという恩賞の約束を断ったという。4月25日、城内から出火し、たちまち燃え広がって冠山城は混乱に陥り、織田・宇喜多勢の総攻撃もあり落城。
一番乗りを果たしたのは当時21歳の加藤清正で、毛利方の竹井将監を討ち取り、藤堂高虎も竹本幸之助を討ち取っている。城主・林重真が自刃し、城兵300余が討死した。
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慶州城の戦い [文禄の役]
1592年4月20日
慶尚北道慶州市
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漢城の戦い [文禄の役]
1592年5月2日
ソウル特別市
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臨津江の戦い [文禄の役]
1592年5月18日
京畿道坡州市
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蔚山城の戦い [慶長の役]
1597年12月22日 ~ 1598年1月4日
蔚山広域市
-
柳川城の戦い [九州の関ヶ原]
1600年9月 ~ 10月25日
福岡県柳川市本城町
黒田如水は加藤清正や鍋島直茂らとともに、筑後柳川城の立花宗茂を包囲する。
宗茂は、関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦っており、島津氏とともに大坂を脱出して帰国したのち、居城の柳川城に籠城していた。
柳川城の堅牢ぶりや宗茂の猛勇を知る3将は宗茂を説得し、10月25日降伏開城を受諾させた。
その後宗茂は、一命を助けられたうえで改易されたが、のち再び大名に取り立てられ柳川藩10万石余の藩主となっている。 -
宇土城の戦い [九州の関ヶ原]
1600年9月15日 ~ 10月23日
熊本県宇土市神馬町
関ヶ原において、東西の両軍が衝突していた9月15日、九州では東軍についた加藤清正が、 西軍の小西行長の居城である肥後宇土城を攻撃する。
このとき行長は大坂に出陣しており留守だったため、宇土城は弟の小西行景らが守っていた。実は,関ヶ原合戦のほぼ40日前,清正は家康から肥後や筑後を実力で軍事占領することを条件に両国の領有保障の約束を取り付けていたのです。
熊本方面から進軍した加藤軍は,石ノ瀬城(石小路町)を突破後,本町・新町などの城下町を焼き払い,宇土城に迫る。
清正自身は茶磨山(松山町)に本陣を置き,宇土城の南回りに兵を進め,かつて城があった西岳(西岡台,神馬町)から宇土城へ激しい攻撃を加えた。小西行景は小鴨元清・小西如安らとともに寡兵ながら防戦に努めたが、関ヶ原での西軍の敗戦が明らかとなったため、10月23日、行景が自刃して開城されている。
こののち、宇土城の支城である八代城も開城した。
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