武将名鑑【信長の野望 新生】
毛利隆元(もうりたかもと)
毛利隆元(もうりたかもと)
毛利隆元 の能力値 | |||||
---|---|---|---|---|---|
統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
80 (137 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
69 (423 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
78 (191 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
87 (45 位) | ||||
合計 | 314 (88 位)2201人中 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
誕生年 | 1523年 | 安芸の戦国大名。元就の嫡男。大内家の人質となり、大内義隆から加冠され元服した。父の後見を受けて中国経略に従事するが、出雲遠征に向かう途中に急死。 | |||||||||
死亡年 | 1563年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
|||||||||||
自衛 | 自勢力内では自部隊の防御上昇 | ||||||||||
策謀 | 特殊な調略具申が可能 | ||||||||||
射手 | 合戦で積極的に高所から射撃 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
|||||||||||
足止 | 敵部隊の機動低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 24 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 31 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 38 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 死亡 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 死亡 |
毛利隆元が登場する合戦
-
第一次月山富田城の戦い [大内義興・義隆の興亡]
1543年3月 ~ 5月7日
島根県安来市広瀬町富田
大内義隆 (36)陶晴賢 (22)杉重矩 (45)内藤興盛 (48)冷泉隆豊 (30)弘中隆兼 (33)大内晴持
毛利元就 (46)小早川正平 (20)益田藤兼 (14)福島源三郎親弘
右田弥四郎
毛利隆元 (20)渡辺通 (32)LOSE
赤穴城を落とした大内義隆は勢いに乗じ、天文12年(1543年)3月、尼子晴久の居城である出雲の月山富田城に攻撃を開始する。
大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。
また、義隆の養嗣子の大内晴持も併せて出陣していた。
毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。
しかし、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に失敗したり、出陣して1年を過ぎていた大勢の士気は下がっていたり、城攻めは難航する。
そして4月末には、尼子方から大内方に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。
城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。
5月7日、劣勢が明白となった大内軍は撤退を開始し、出雲意宇郡出雲浦へ退いた。
尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。
このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。
義隆は宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月25日に山口に帰還する。
しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。
殿を命じられていた毛利軍は、沼田小早川正平らが討死するなど過酷を強いられながら安芸への撤退を続けるも、石見の山吹城から繰り出された尼子軍の追撃によって、石見国の大江坂七曲りで元就と嫡子の隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。
この時、毛利家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、内藤九郎右衛門元茂・波多野源兵衛・井上与三右衛門元有・井上源左衛門・三戸与五郎・三戸小三郎ら7人が囮役となり追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。
現在この毛利元就が九死に一生を得た場所は、七騎坂(島根県大田市温泉津町小浜)と呼ばれている。
吉田郡山城に無事帰還した元就は、渡辺通の献身に感動し、通の子・渡辺長を股肱の臣として重用している。
寵愛していた大内晴持が船の転覆により溺死したことで、義隆はそれ以降政治に対する意欲がなくなり、一方で尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ最盛期を迎える。
この遠征は1年4ヶ月にも及んだ挙句敗戦し、大内氏衰退の一因となった。
-
須々万沼城の戦い [毛利元就の周防・長門平定]
1557年2月28日 ~ 3月3日
山口県周南市須々万本郷
-
松山城の戦い [毛利元就と大友宗麟]
1562年9月 ~ 1563年1月27日
福岡県京都郡苅田町松山
永禄5年(1562年)9月、大友宗麟は毛利元就による筑前への連絡を断つ目的で尼子義久から出陣の要請を受けた。
宗麟は豊前に戸次鑑連(立花道雪)や吉弘鑑理らを派遣し、元就の家臣の勇将・天野隆重、内藤就藤、毛利元種・元員や杉氏の一族である杉重良が守る苅田松山城を包囲させた。
これに対し元就は、翌永禄6年(1563年)正月に、子の毛利隆元と小早川隆景らの大軍を周防府中(防府)に送り込んで松山城攻略の指揮をさせる。
正月27日の決戦で毛利方が勝利をおさめると、永禄7年(1564年)に第13代将軍足利義輝の仲介を受け入れて、大友氏と毛利氏は和睦し松山城は大友氏に引き渡された。
その後大友方の長野祐盛が松山城に入った。
毛利隆元が登場する記事一覧
おすすめ記事一覧
-
歴史イベント
【新解釈】本能寺の変の真実!光秀が謀反を決意した真の動機とは?
-
ランキング
戦国武将のかっこいい異名・あだ名ランキングTOP10
-
ランキング
障害が残るほどの苦悩、遺書を残し死を覚悟した懺悔など黒田官兵衛の大ピンチTOP3!!
-
ランキング
織田信長を裏切り窮地に陥れた戦国武将ランキングTOP5
-
戦国時代の逸話
豊臣秀吉の指は6本あった?その真相に迫る【戦国時代の逸話】
-
どうする家康
「無」を掲げた徳川四天王・榊原康政(さかきばらやすまさ)とは?【マイナー武将列伝】
-
ランキング
戦国武将の変な名前ランキング!!
-
戦国時代の逸話
直江兼続が家康に送った「直江状」とは?痛烈な皮肉がたーぷり【戦国時代の逸話】
-
戦国時代の暮らし
戦国武将たちのセックス事情はどんなだった?【戦国時代の暮らし】
-
どうする家康
なぜ豊臣家に出奔したのか!?徳川家康の右腕であった石川数正(いしかわかずまさ)とは?【メジャー武将列伝】
-
どうする家康
家康から最も信頼された同級生・平岩親吉(ひらいわちかよし)とは?【マイナー武将列伝】
-
どうする家康
家康につかなかったため滅ぼされた三河武士、鵜殿長照(うどのながてる)とは?【マイナー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はどんな人質時代を送っていたのか?【メジャー武将列伝】
-
メジャー武将列伝
家康はなぜ松平から徳川に改姓したのか?【メジャー武将列伝】
-
戦国時代の女性
徳川家を苦しめた妖刀「村正」【戦国時代の逸話】
-
マイナー武将列伝
鳥居忠吉(とりいただよし)は何をした人?息子と共に三河武士の鑑と称された男【マイナー武将列伝】
-
蟹江七本槍
大久保忠世(おおくぼただよ)は何をした人?徳川家臣No.5の実力は?【マイナー武将列伝】