武将名鑑【信長の野望 新生】
菅沼定盈(すがぬまさだみつ)
菅沼定盈(すがぬまさだみつ)
菅沼定盈 の能力値 | |||||
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統率
出陣部隊の防御力、城の防御力に影響する。 |
53 (1181 位) | ||||
武勇
出陣部隊の攻撃力、強攻時に敵城に与えるダメージ、 |
56 (1004 位) | ||||
知略
出陣部隊の包囲時のダメージ量、城の包囲時の防御力、 |
64 (683 位) | ||||
政務
城の収入に影響する。 |
49 (1352 位) | ||||
合計 | 222 (994 位)2201人中 |
菅沼定盈 の基礎データ | |||||
---|---|---|---|---|---|
性別 | 男 | ||||
幼名 | 竹千代 | ||||
仮名・通称 | 新八郎 織部正 | ||||
法号・戒名 | 勝徳院殿長翁宗堅大居士 | ||||
父 | 菅沼定村 | ||||
母 | 松平忠定の娘 | ||||
配偶者・正室 | 松平政忠の娘 | ||||
側室1 | 松平家次の娘 |
その他のデータ | 列伝 | ||||||||||
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誕生年 | 1543年 | 今川家臣。野田城主。桶狭間合戦後、徳川家に仕える。武田信玄の三河侵攻では一族の多くが信玄に寝返る中、一貫して徳川家に属し、居城を攻め落とされた。 | |||||||||
死亡年 | 1604年 | ||||||||||
主義
革新、中道、保守の3種類ある。忠誠の増減に関係する。 |
保守 | ||||||||||
特性
武将の個性。政略、軍事など、様々な場面で効果を得られる。 |
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修繕 | 所属城の耐久自然回復量上昇 | ||||||||||
戦法
合戦で使える特殊な技。 |
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威圧 | 敵部隊の攻撃低下 |
シナリオ | |||||||||||||||
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年月 | シナリオ | 年齢 | |||||||||||||
1546年1月 | 信長元服 | 元服前 | |||||||||||||
1553年4月 | 尾張統一 | 元服前 | |||||||||||||
1560年4月 | 桶狭間の戦い | 18 | |||||||||||||
1570年4月 | 信長包囲網 | 28 | |||||||||||||
1582年5月 | 夢幻の如く | 40 |
菅沼定盈が登場する合戦
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野田城の戦い [徳川家康の三河平定]
1561年7月29日
愛知県新城市豊島本城
永禄4年(1561年)7月29日、菅沼定盈は松平元康に通じたため、今川氏真は小原鎮実に菅沼定盈が守る野田城攻めを命じた。
今川勢に包囲された定盈は、勧告を受け入れて開城降伏。
隣郡八名郡の西川城主で従兄弟にあたる西郷清員の許へ落ちのびた。
翌永禄5年(1562年)6月2日、今川氏真の一族である堀越氏延が反乱鎮圧のために遠江見附城で挙兵した合隙をぬって、菅沼定盈は野田城を攻撃した。
定盈の夜襲により野田城が陥落し、城代・稲垣氏俊は討死。
再び城主に復帰した。
-
大野田城の戦い [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1571年4月28日 ~ 29日
愛知県新城市野田
足助城を落とした武田信玄は、奥三河の国衆を降しながら、作手城主・奥平貞能と田峯城主・菅沼定忠を案内役として菅沼定盈が守る大野田城に向かう。
信玄は武田信豊・馬場信房・秋山信友らを家康の押さえとし、山県昌景・小笠原信嶺・相木市兵衛らに対して大野田城攻めを命じた。
4月28日の夜半、案内役の菅沼定忠は、大野田城主の菅沼定盈と同族であったため、悲劇を最小限に抑えようとしたのか道に迷ったふりをして大野田城から西北に5kmほどの本宮山に出てしまった。
菅沼定盈が武田勢の来襲を知ったのは、武田勢がちょうど本宮山に居た頃であった。
城内では直ちに軍議が開かれたが、籠城するか打って出るか決定しないまま夜が明けてしまった。
そこに武田勢の目にしたこともない大軍を目撃したため、城に火を放って一目散に西郷方面へ退去した。
武田勢は、定盈を追撃することはせず吉田城に向かった。
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野田城の戦い [武田信玄・勝頼の遠江・三河信仰]
1573年1月11日 ~ 2月17日
愛知県新城市豊島本城
元亀4年(1573年)、三方ヶ原の戦いに勝利した武田信玄は30000余の兵を率いて本坂峠を越えて三河に侵入すると、正月11日から野田城を攻撃する。
野田城は『三河物語』において「藪のうちに小城あり」と言われるほどの小さな城であり、兵力も城将・菅沼定盈とその援軍合わせて500名程度であった。
しかし、河岸段丘の地形を利用した築城によって攻め口が限られてくるため、武田の大軍を相手にするには有利な構造となっていた。
武田軍は力攻めは行わず、わざわざ甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採った。
城内の水の手を切られ、2月17日に菅沼定盈は自身の切腹を条件に城兵の助命を嘆願し開城した。
ただ信玄は定盈の一命を助け、人質交換に用いている。
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