畠山氏の内訌と細川政元
畠山氏の内訌と細川政元
1477年10月
細川政元
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若江城の戦い(わかえじょうのたたかい)
1477年10月9日
大阪府東大阪市若江南町
畠山義就
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遊佐長直
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文明8年(1476年)4月、応仁・文明の大乱の終結により畠山政長は河内確保のため家臣の遊佐長直を若江城へ派遣したが、畠山義就も河内奪取の機会を伺い翌文明9年9月21日に兵2,000で京都を出発し河内に向かった。
27日から政長方と合戦を始め若江城の東の客坊城を落城させ、10月1日に若江城と誉田城の中間に位置する八尾城に入城、7日には誉田城も陥落させた。
10月9日には南部の嶽山城も畠山義就方が制圧し、残る守護職を置いていた若江城も義就軍が落とし遊佐長直は摂津天王寺から船に乗って大和川を渡り落ちのびた。
これにより河内は畠山義就に平定された。
草路城の戦い(くさじじょうのたたかい)
1482年12月26日
京都府京田辺市草内宮ノ後
畠山義就
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遊佐兵庫助
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若江城の戦いで河内を支配した畠山義就は次に畠山政長の守護領域である山城の侵入を企てた。
文明14年(1482年)12月26日、畠山義就は政長の属城である山城草路城を攻撃。
それを察知していた政長は、草路城に遊佐兵庫助を大将とし、山城の国衆狛氏や炭窯氏らの軍勢を派遣していたが、寡兵であったため草路城は落城。
数十人が切腹させられ、逃れた上兵は山城槙島城に落ちた。
この戦いによって、畠山義就は南山城も制圧することになった。
十七箇所の戦い(じゅうななかしょのたたかい)
1483年8月22日
大阪府寝屋川市
畠山義就
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畠山政長
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文明15年(1483年)8月13日、畠山義就軍は畠山政長が守る河内十七箇所を攻撃した。
この十七箇所は淀川南流の西に広がる17の荘園群に因む地名で、幕府の御料所だった場所である。
淀川と深野池に挟まれた低湿地で、淀川が長雨で増水していたことに目を付け、22日淀川堤防の大庭堤(守口市)・植松堤(八尾市)を決壊させ十七箇所を水攻めにした。
河内における支配権を畠山義就に奪われた畠山政長は、翌23日に義就を朝敵とする後土御門天皇の綸旨を拝領している。
山城国一揆(やましろのくにいっき)
1485年10月 ~ 12月17日
京都府宇治市
畠山政長
DRAW
畠山義就
DRAW
文明17年(1485年)7月、山城に入っていた斎藤彦次郎が、畠山義就方から畠山政長に寝返った。
政長はこの機会を利用して、古市・筒井氏ら大和の国衆を南山城に送り、義就方も誉田氏ら河内の国衆を送って、両軍は南山城で対陣した。
戦況は膠着状態となり60日以上にわたって戦いが続く。
この間、農民は人夫や兵糧米を徴発され、田畑は荒らされ、民家は焼き払われました。
12月11日、このような状態に苦しめられた南山城の地侍や一般の農民たちは共同し、両畠山軍に南山城から撤退するように申し入れた。
上は60歳から下は15歳に及ぶ国人が集会し、一国中の土民が群集して決められたという。
この要請により、17日に政長勢は京都へ引き上げ、義就勢は河内へ撤退した。
高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい)
1493年2月 ~ 3月26日
大阪府羽曳野市古市
足利義材
畠山政長
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畠山義豊
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正覚寺城の戦い(しょうかくじじょうのたたかい)
1493年4月 ~ 4月23日
大阪府大阪市平野区加美正覚寺城
安富元家
上原元秀
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足利義材
畠山政長
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第10代将軍の足利義材の河内遠征中に起こった明応の政変で謀反を起こした細川政元は、明応2年(1493年)4月、安富元家と上原元秀に命じて、河内正覚寺城に立て籠もる義材と畠山政長を攻撃させた。
政元勢4万以上であり、一方で義材・政長勢は8000人余であった。
城は4月23日に陥落し、政長は子の於児丸(尚順)を紀伊に逃した後、遊佐長直らとともに自刃した。
正覚寺は兵火に包まれ三日三晩燃え続け、寺内の高僧や修行僧も寺院と共に命を終えた。
捕らえられた足利義材は京都に幽閉されたが、後に政長の領国である越中の守護代である神保長誠を頼って落ちのびていく。
高屋城の戦い(たかやじょうのたたかい)
1497年10月7日
大阪府羽曳野市古市
畠山尚順
WIN
畠山義豊
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明応2年(1493年)正覚寺城の戦いに敗れ、自刃した畠山政長の子である於児丸は、政長の守護領国のひとつである紀伊に逃れたあと、元服して尚順と名乗っていた。
河内では、政長の死により畠山義豊が畠山氏の惣領として認められたが、守護代の遊佐氏や誉田氏が対立により支配は不安定であった。
この混乱を好機と見て河内に侵入した尚順は、明応6年(1497年)10月7日に河内を奪回するため義豊が守る高屋城を攻撃した。
尚順は高屋城の奪還に成功し、義豊は山城国に逃亡した。
十七箇所の戦い(じゅうななかしょのたたかい)
1499年1月30日
大阪府寝屋川市
畠山義豊
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畠山尚順
WIN
明応6年(1497年)の高屋城の戦いで敗北し、山城に逃れていた畠山義豊は、細川政元の支援を受けて河内への復帰を狙っていた。
明応8年(1499年)1月30日、義豊が政元の支配下にある河内十七箇所に入ると、高屋城の畠山尚順がこれを迎え撃つ。
この戦いで義豊は敗れ自刃し、嫡男の義英は戦場から落ちのびていった。
その後、尚順は細川政元配下の代官を追放して河内十七箇所を占領し、河内一国を支配するようになる。
延暦寺の戦い(えんりゃくじのたたかい)
1499年7月20日
滋賀県大津市坂本本町
赤沢朝経
波々伯部宗量
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延暦寺
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比叡山延暦寺 大講堂
明応の政変で政元によって将軍職を奪われた足利義尹(義材)は、畠山尚順の家臣である越中守護代の神保長誠に迎えられ、加賀守護の富樫泰高や越前守護の朝倉貞景の支持を受けていた。
義尹はその勢いで上洛の姿勢を示すと、延暦寺が入京を支援しようとしたため、明応8年(1499年)7月20日、 細川政元は被官の赤沢朝経や波々伯部宗量らに延暦寺を攻撃するよう命じた。
細川勢による攻撃により、延暦寺の根本中堂や大講堂、常行堂、法華堂、延命院、四王院、経蔵、鐘楼などの堂舎が焼失し、暦寺の衆徒や義尹の幕臣桃井氏が討ち取られた。
近江に進軍していた義尹と河内で挙兵した畠山尚順も細川軍に敗れ、政元は包囲の危機を脱することができた。
その後、天台座主の堯胤法親王は職を辞し、政元は義尹方の所領を没収した。
宇治木幡の戦い(うじこはたのたたかい)
1499年9月10日
京都府宇治市木幡
赤沢朝経
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畠山尚順
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坂本の戦い(さかもとのたたかい)
1499年11月17日 ~ 22日
滋賀県大津市坂本
足利義伊
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細川政春
六角高頼
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坂本城の石垣
天王寺の戦い(てんのうじのたたかい)
1499年12月20日
大阪府大阪市天王寺区四天王寺
細川政元
畠山義英
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畠山尚順
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明応8年(1499年)1月の河内十七箇所の戦いで畠山義豊が敗死したあと、河内は畠山尚順の支配下に置かれていた。
しかし、畠山義豊の子である義英は細川政元に従って復権の目指しており、同年12月に政元と共に兵を興して河内へ侵攻する。
尚順は急いで塀を準備して摂津天王寺で細川勢を迎え撃ったが、大敗を喫してしまう。
誉田城や高屋城などことごとく攻略され、尚順は守護領国の一つである紀伊に逃れた。
岸和田城の戦い(きしわだじょうのたたかい)
1500年9月2日
大阪府岸和田市岸城町
畠山尚順
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細川元有
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岸和田城
明応8年(1499年)の天王寺の戦いに敗れて紀伊に逃れていた畠山尚順は、翌年の明応9年(1500年)8月に根来寺・粉河寺の衆徒と共に和泉に侵攻した。
尚順は和泉の守護である細川元有や下守護家の細川基経が守る岸和田城を攻撃した。
元有はかつて尚順と通じていたが、細川政元に敗れた後に離反していたため、尚順と敵対していた。
岸和田城は9月2日に急襲を受け、防戦に努めたが支えきれずに落城し、元有は戦死し一族ら13人とともに自刃した。
この戦いで尚順は河内へ復帰の足かかりを得たが、細川政元の重臣である赤沢朝経に敗れ、再び紀州に没落する。
誉田城の戦い(こんだじょうのたたかい)
1505年11月27日 ~ 1506年1月26日
大阪府羽曳野市誉田
赤沢朝経
WIN
畠山義英
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