京極氏・浅井氏と六角氏
京極氏・浅井氏と六角氏
1486年8月
京極高広と六角定頼
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敏満寺の戦い(びんまんじのたたかい)
1486年8月
滋賀県犬上郡多賀町敏満寺
多賀宗直
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京極高清
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足利義政
文明2年(1470年)に京極持清が病没したあと、第8代将軍の足利義政は、持清の嫡子・勝秀がすでに没していたため、嫡孫にあたる孫童子に家督を継がせ、持清の次男・政経(政高)をその後見にした。
しかし、家督を継いだ孫童子が早世したことから政経が家督を継ぐが、これにより孫童子の弟にあたる京極高清と対立することになる。
文明18年(1486年)8月に出雲に下向していた京極政経・材宗父子が上洛、高清は敏満寺にいるところを政経方に寝返った多賀宗直に攻められ、近江甲賀に逃れた。
その後京極高清は10月に反撃して多賀宗直を破り、翌年5月に打ち果たしている。
国友河原の戦い(くにともがわらのたたかい)
1487年5月1日
滋賀県長浜市国友町
京極高清
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多賀宗直
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京極高清は敏満寺の戦いに敗れ、近江国甲賀郡の三雲まで逃れていたが、文明19年(1487年)5月1日に再び陣容を整え、京極政経方の近江国友城主・国友兵庫助を攻めた。
政経は国友城に援軍として多賀宗直を派遣したが、高清はこれを見て国友城の包囲を解き、近江国友河原で多賀勢を迎え撃つ。
多賀宗直はこの戦いに敗れ、浅井郡月ヶ瀬の城館まで逃れたが、包囲され追撃を逃れる道がないと判断し、自刃した。
宗直の死により多賀出雲守家は断絶し、高忠の豊後守家が存続した。
祇園館の戦い(ぎおんやかたのたたかい)
1490年9月
滋賀県長浜市祇園町
京極政経
WIN
京極高清
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今浜城の戦い(いまはまじょうのたたかい)
1501年6月17日
滋賀県長浜市公園町
京極材宗
浅井直種
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京極高清
上坂家信
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尾上城の戦い(おのえじょうのたたかい)
1523年3月9日
滋賀県長浜市湖北町尾上
上坂家信の死後、その子である信光の補佐を受けていた京極高清は、信光が推す次男の高吉を後継者として選択した。
しかし、高清の長男である高峰(高延・高広)を後継者として推す北近江の国人領主の浅見貞則・浅井亮政・三田村忠政・堀元積・今井越前らは、大永3年(1523年)3月9日、高峰への家督継承を求めて反上坂信光の一揆を結成し兵を起こしまた。
信光はこの情勢を察知し、軍兵を今浜城に集め、尾上城に近い安養寺を拠点として軍勢を配したが、貞則の居城である尾上城に集結していた一揆勢に敗れた。
この敗北により、信光は自らの居城である今浜城に敗走した。
今浜城の戦い(いまはまじょうのたたかい)
1523年3月12日
滋賀県長浜市公園町
大永3年(1523年)3月9日の尾上城の戦いで、京極高峰(高延・高広)を支持する浅見貞則・浅井亮政らに敗れた上坂信光は、自らの居城である今浜城に逃げ戻った。
しかし、今浜城も追撃してきた貞則・亮政らに包囲され、激しい攻撃を受けた。
結果的に、3月12日に城は攻め落とされた。
辛うじて今浜城から脱出した信光は刈安尾城に逃れたものの、ここでも一揆勢に攻められ、京極高清の上平寺城も一揆勢による焼き討ちを受けた。
高清と高吉父子と上坂信光は尾張国へと落ち延びていくこととなった。
一揆勢は刈安尾城に留まっていた京極高峰を支持し、神照寺に入り、そして尾上城に彼を迎えることとなった。
小谷城の戦い(おたにじょうのたたかい)
1525年7月 ~ 8月28日
滋賀県長浜市湖北町伊部
大永3年(1523年)の今浜城の戦い後、協力して京極高清の長男・高広を後継に推した浅見貞則と浅井亮政との間で対立が始まる。
浅見貞則の専横な振る舞いが強くなり、国人領主らの反感を招くようになったためだ。
大永5年(1525年)5月、追放した上坂信光と和睦した亮政は、尾張から京極高清と高吉父子を自らの居城である小谷城に迎え入れ、権力の掌握を図った。
同年7月、六角定頼によって小谷城が攻撃された亮政は、越前の朝倉教景の援軍を受けて撃退することに成功すると、8月28日には教景の仲介により、亮政と定頼が和睦することになった。
内保河原の戦い(うちぼがわらのたたかい)
1528年8月3日
滋賀県長浜市内保町
大永3年(1523年)3月の今浜城の戦いで浅井亮政に敗北した上坂信光は、大永5年(1525年)5月に亮政と和睦して京極高清・高吉父子も近江に復帰した。
大永8年(1528年)8月に上坂信光は南近江の六角定頼と手を結び挙兵する。
六角氏はかねてより北近江狙っていたので、これ幸いと上坂信光を支援した。
これに対し亮政は京極高広を擁して、内保河原で京極高吉・上坂信光を破った。
しかしこの戦いで浅井氏と六角氏との争いが激化していった。
箕浦の戦い(みのうらのたたかい)
1531年4月6日
滋賀県米原市箕浦
佐和山城の戦い(さわやまじょうのたたかい)
1538年3月27日 ~ 5月23日
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城から見た琵琶湖
鎌刃城の戦い(かまはじょうのたたかい)
1538年6月4日
滋賀県米原市番場
今井貞清
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堀元積
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国友河原の戦い(くにともがわらのたたかい)
1538年9月12日
滋賀県長浜市国友町
国友城の戦い(くにともじょうのたたかい)
1544年8月24日
滋賀県長浜市国友町
天文11年(1542年)正月6日、京極高広を傀儡として北近江を支配していた浅井亮政が死去し、その跡を子の久政が継いだ。
高広は対立していた兄の京極高吉と結び、天文13年(1544年)8月24日、浅井方の国友伯耆守が守る国友城を攻めて破る。
佐和山城の戦い(さわやまじょうのたたかい)
1552年9月
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城桝形虎口
地頭山の戦い(じとうやまのたたかい)
1553年11月
滋賀県米原市寺倉
佐和山城の戦い(さわやまじょうのたたかい)
1559年5月
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城入口 龍潭寺山門
北近江半国守護京極家の被官であった浅井氏は、浅井亮政の代に京極家の御家騒動を発端とした衰退に乗じて下克上を成し遂げ、越前朝倉家の助けを得て戦国大名として名を挙げた。
しかし、子の久政の代には南近江の六角氏に帰順するまでに衰退していた。
永禄2年(1559年)正月に元服した久政の子・賢政は、父の久政を隠居させると、六角義賢に反旗を翻す。
百々氏は、位置的に南北近江の両勢力の侵食を受けやすいため、その時々に京極氏・六角氏・浅井氏など大勢力に属してきたが、この時百々内蔵助盛実は浅井氏に属しており、賢政は内蔵助に佐和山城代を命じた。
5月、六角義賢は伴中務少輔に佐和山城への攻撃を命じたが、佐和山城代となった百々内蔵助が撃退した。
これを機に浅井賢政は、六角義賢の偏諱を捨て浅井長政と名乗るようになる。
肥田城の戦い(ひだじょうのたたかい)
1559年9月19日
滋賀県彦根市肥田町
六角義賢(承禎)に反旗を翻した浅井長政が、六角領との国境周辺の国衆を誘降しはじめると、長く六角氏の配下にあった肥田城主の高野瀬秀隆も義賢から離反して長政につく。
宇曽川をへだてて隣接する肥田城は北国街道に接するため、この城が浅井方になると六角勢は江北への道を封じられてしまう。
永禄2年(1559年)9月、高野瀬秀隆の寝返りに激怒した六角義賢は子の義治とともに大軍を率いて肥田城に押し寄せると、城の周囲に堤を築いて水攻めにした。
この時の六角軍の総勢は2万5000人で、総大将は六角義賢、先鋒に蒲生定秀と永原重興、第2陣に楢崎壱岐守と田中治部大輔らが参陣していた。
しかし9月19日、堤が決壊したため城攻めは失敗に終わった。
野良田の戦い(のらだのたたかい)
1560年8月
滋賀県彦根市野良田町周辺
六角義賢
佐和山城の戦い(さわやまじょうのたたかい)
1561年3月
滋賀県彦根市佐和山町
佐和山城全景
太尾山城の戦い(ふとおやまじょうのたたかい)
1561年7月1日
滋賀県米原市米原
観音寺騒動(かんのんじそうどう)
1563年10月7日
滋賀県蒲生郡安土町石寺
小谷城から観音寺城を望む
蒲生野の戦い(がもうののたたかい)
1566年7月29日
滋賀県東近江市布施町・市辺町一帯
永禄9年(1566年)7月、布施山城主の布施公雄が六角義治に反旗を翻すと、義治は池田定輔に命じて現在の滋賀県東近江市稲垂町の玉緒山の頂上にある布施山城をすぐさま攻撃させた。
布施氏は、元は佐々木六角氏の家臣で、本家筋といわれる布施三河守家と布施淡路守家に分かれていたが、布施公雄は本家筋の布施三河守系統である。
永禄6年(1563年)の後藤氏謀殺に家臣が六角氏に反発して自領へ引き上げた「観音寺騒動」にも関わって、次第に六角氏と距離を置き出して今回の離反に至った。
苦戦を予想した公雄は、北近江の浅井長政に後詰の要請した。
長政自ら出陣し、7月29日、近江蒲生野において両軍が衝突する。
このときは敗れた長政であったが、陣容を立て直すと、9月9日、六角方の将・三雲賢持らを討った。
こののち六角氏は、織田信長と結んだ長政による攻勢を受け弱体化していく。
その後布施氏は、永禄11年(1568年)の織田信長の侵攻で織田氏に臣従する。
この合戦に登場する武将
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浅井亮政 (あざいすけまさ)
近江の戦国大名。小谷城主。はじめ京極家に仕えたが、主家の内紛に乗じて勢力を拡大する。朝倉家の援助を受けて六角定頼の軍を撃退し、江北に覇を唱えた。
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京極高吉 (きょうごくたかよし)
足利家臣。主君・義輝の近習を務めた。義輝の死後は、近江に逃れた義輝の弟・義昭のために奔走。義昭の将軍就任後、織田信長と対立して上平寺に隠居した。
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六角定頼 (ろっかくさだより)
近江の戦国大名。近江に逃れた将軍・足利義晴を支援した。楽市楽座の創始や、一国一城令の先駆をなす「城割り」を初めて行った人物として著名。
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京極高広 (きょうごくたかひろ)
北近江半国の守護。高清の長男。父が養子・高吉に家督を譲ろうとした際、浅井亮政らに擁立され高清・高吉を追う。家督を継ぐも、実権は亮政に奪われた。
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浅井久政 (あざいひさまさ)
近江の戦国大名。小谷城主。亮政の子。六角家の傘下に入る政策を採ったため家臣の不満が集まり、のちに子・長政に家督を譲った。浅井家滅亡時に自害した。
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六角義賢 (ろっかくよしかた)
近江の戦国大名。定頼の子。江南に勢力を伸ばす。三好家に京を追われた足利将軍家を保護し、仲裁に奔走した。のち織田信長の上洛軍に敗れ、所領を失った。
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浅井長政 (あざいながまさ)
近江の戦国大名。小谷城主。久政の子。織田信長の妹・市を娶るが、朝倉家との友誼を重んじ信長と敵対。居城を攻められ、市と娘たちを信長に託し自害した。
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六角義治 (ろっかくよしはる)
近江の戦国大名。義賢の子。筆頭家老・後藤賢豊を謀殺し、家臣の信頼を失う。織田信長の上洛軍に敗れ、諸国を流浪した。晩年は豊臣秀頼の弓師範を務めた。
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蒲生定秀 (がもうさだひで)
六角家臣。六角軍の先鋒として各地に出陣し、勇名を馳せた。主君・義治が後藤賢豊を謀殺して観音寺騒動が起こった際は、義治と家臣団間の調停役を務めた。
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磯野員昌 (いそのかずまさ)
浅井家臣。佐和山城主。姉川合戦では先鋒を務めて奮戦した。のちに織田信長に降った。新庄城主となるが、勘気を蒙って所領を没収され、高野山に出奔した。
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進藤賢盛 (しんどうかたもり)
六角家臣。織田信長の上洛軍に降る。以後は佐久間信盛の与力として、各地に従軍した。信盛の改易後は旗本となる。本能寺の変後は蒲生氏郷の与力となった。