大内氏の九州進出と少弐氏
大内氏の九州進出と少弐氏
1496年12月
大内義興と少弐資元
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高祖城の戦い(たかすじょうのたたかい)
1496年12月22日
福岡県前原市高祖
少弐政資
WIN
原田興種
LOSE
明応4年(1495年)、少弐政資を筑前から逐った大内政弘が中風が悪化し死去する。
筑前奪還の好機ととらえ龍造寺氏や千葉氏などの肥前の国衆を従えて筑前に上陸し、大内家の後を継いだ大内義興方の原田興種が守る筑前高祖城を包囲した。
天然の要害である高祖城であったが、明応5年(1496年)12月12日に城内の内応により落城。
少弐政資は高祖城を新たな拠点にし筑前平定に乗り出した。
筑紫の戦い(つくしのたたかい)
1497年3月15日
福岡県筑紫野市筑紫一帯
少弐政資が筑前に侵入する報を聞いた大内義興は、明応5年(1496年)12月13日に自らが5万余の大軍を率いて周防山口を出陣した。
九州に上陸し筑前に入った大内軍は二手に分かれ、少弐方の拠点である筑前岩門城と肥前勝尾城に一手を差し向けた。
少弐政資・高経父子は、3月15日に筑紫村や城山で大内勢を迎撃するも大敗し、政資は岩門城に高経は勝尾城に敗走し籠城作戦をとった。
勢福寺城の戦い(せいふくじじょうのたたかい)
1497年3月23日 ~ 4月8日
佐賀県神埼市神崎町
筑紫の戦いに敗れた少弐政資の子の高経は、肥前勝尾城に入ったが、ここも陶興房が率いる大内勢2万余に包囲される。
少弐方にいた筑紫満門・東尚頼らが降伏するなか、高経は逃れて肥前勢福寺城に入った。
勢福寺城は、本国の筑前を逐われた少弐氏が筑後江上城主の江上氏から居城として提供されていた城である。
大内義興軍の攻撃は厳しくこの勢福寺城も4月8日に落とされ、高経は父の政資と合流すべく、肥前晴気城に逃れた。
筑紫満門・東尚頼は後に大内氏に許され、以後は大内方として北九州での筑紫氏の立場を強化している。
晴気城の戦い(はるけじょうのたたかい)
1497年4月18日
佐賀県小城市小城町畑田
筑紫の戦いに敗れた少弐政資が入った筑前岩門城が落城すると、明応6年(1497年)4月13日、政資は実弟の千葉胤資の守る小城郡晴気城に逃れ、子の高経と合流する。
しかし晴気城も、大内勢と千葉氏庶流の牛頭城主である千葉興常の大軍に包囲されてしまったため、弟の千葉胤資は身を案じ、兄の政資に多久の梶峯城へ移るよう勧めた。
4月18日、晴気城は落城し、落ちのびた政資は多久の梶峰城へ敗走したが、19日、逃げられぬと悟り多久泉称寺で自刃し、別行動を取っていた高経も市川の山中で自刃した。
城主の千葉胤資は、少弐一族を逃したあと城から打って出て大内軍に討ち取られた。
田手畷の戦い(たでなわてのたたかい)
1530年8月15日
佐賀県神崎郡吉野ヶ里町田手
勢場ヶ原の戦い(せいばがはるのたたかい)
1534年4月6日
大分県杵築市山香町勢場
三津山の戦い(みつやまのたたかい)
1534年7月15日
佐賀県神崎郡吉野ヶ里町三津
勢福寺城の戦い(せいふくじじょうのたたかい)
1534年10月30日
佐賀県神埼市神崎町
三津山の戦いで敗北した大内義隆は、陶興房を先陣とした3万余の大軍で出陣し福岡の太宰府に陣を構えた。
これに対し少弐資元・冬尚父子は、当時居城にしていた肥前勢福寺城に籠城し寡兵ながら防御を固めた。
天文3年(1534年)10月30日、大内義隆は少弐氏配下の龍造寺家兼を介して少弐氏に和睦を勧告した。
少弐資元はこれを受け入れ、勢福寺城を明け渡した。
梶峰城の戦い(かじみねじょうのたたかい)
1536年9月4日
佐賀県多久市多久町
この合戦に登場する武将
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大内義興 (おおうちよしおき)
大内家30代当主。逃れてきた前将軍足利義稙を擁し、細川高国と結んで上洛。管領代として10年幕府政治を司る。帰国後は尼子や安芸武田家と戦った。
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杉興運 (すぎおきかず)
大内家臣。筑前守護代を務めた。肥前田手畷合戦では総大将を務め、少弐家臣・龍造寺家兼の軍と戦うが、敗北した。陶晴賢の謀叛の際に主君・義隆に殉じた。
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龍造寺家兼 (りゅうぞうじいえかね)
少弐家臣。田手畷合戦で大内軍を破るなど活躍するが、馬場頼周の策謀で多くの一族を殺され、筑後に逐電。のち肥前に復帰して頼周を討ち、再興を果たした。
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馬場頼周 (ばばよりちか)
少弐家臣。肥前綾部城主。謀略を用いて政敵・龍造寺家兼の一族を討ち、家兼を失脚に追い込む。しかしのちに肥前に復帰した家兼に攻められ敗北、討たれた。
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小田政光 (おだまさみつ)
少弐家臣。肥前蓮池城主。龍造寺隆信の家督相続に反対した東肥前十九将の1人で、隆信と争う。隆信の肥前復帰後は隆信に仕え、江上武種討伐戦で戦死した。
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陶興房 (すえおきふさ)
大内家臣。周防守護代を務める。主君・義興に従い上洛したほか、安芸や九州に出陣するなど、各地で活躍した。和歌・連歌に優れ、文化人とも交流を持った。
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大内義隆 (おおうちよしたか)
大内家31代当主。7カ国の守護を務め中国・九州に覇を唱えた。養嗣子・晴持の死後は文事に傾倒して独自の文化を築くが、家臣・陶晴賢の謀叛に遭い自害。
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少弐資元 (しょうにすけもと)
少弐家第16代当主。肥前勢福寺城主。大内義隆の攻勢を受けると居城を明け渡して和睦する。のち欺かれて所領をすべて失い、追撃を受けて自害した。
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少弐冬尚 (しょうにふゆひさ)
少弐家17代当主。資元の子。龍造寺家兼の一族を殺し、東肥前の領主の後援を得て勢力回復をはかるが、再起した家兼の曾孫・隆信の軍勢に敗れ、自害した。