今日は何の日?

  • ● 1557年 毛利元就が周防を平定
  • ● 1574年 織田信長が朝廷より名香木の蘭奢待を拝領する
  • ● 1611年 豊臣秀頼が徳川家康と二条城で会見
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この人誰?

伊東盛正

大内義興・義隆の興亡

1515年

大内義隆と尼子経久

目次[非表示]

己斐城の戦い(こいじょうのたたかい)

1515年

広島県広島市西区己斐上

武田元繁

LOSE

己斐宗端

毛利興元

吉川元経

WIN

永正12年(1515年)、大内義興に従って上洛していた安芸の分郡守護の武田元繁は、国内の混乱を鎮圧するために帰国を命じられると、自らの勢力を拡大させるために義興に反旗を翻す。

大内義興は武田元繁が離反しないように養女の権大納言飛鳥井雅俊の娘を元繁に嫁がせていたが、元繁は義興の養女と離縁すると、出雲の尼子経久の弟である久幸の娘を継室に迎えた。

尼子氏の支援を受けた元繁は、義興に従う己斐宗端の居城の安芸己斐城を攻撃し数か月にわたり包囲する。

しかし元繁の動きに対して義興は、毛利興元・吉川元経に己斐城救援を命じ、元繁の属城である安芸有田城を攻略させたため、元繁は己斐城の包囲を解いて退却している。

有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい)

1517年10月22日

広島県山県郡北広島町有田

武田元繁

熊谷元直

香川行景

LOSE

相合元綱

渡辺勝

吉川元経

WIN

毛利元就の初陣となる戦いとしても知られる。

永正13年(1516年)8月に毛利興元が死去すると、その子の幸松丸が2歳で当主となった。

叔父の毛利元就が後見役となるが、元就も二十歳であったため、これを好機と見た武田元繁は己斐城の戦いで毛利方に奪われていた有田城を奪還するべく永正14年(1517年)10月22日これを攻撃した。

毛利元就は吉田郡山城への救援を要請し、弟の相合元綱や桂元澄・井上氏・坂氏・渡辺勝・福原貞俊・口羽氏・赤川氏・粟屋氏・児玉氏らを主力とし武田軍にあたる。

毛利元就や吉川元経らは有田城外で打って出て、武田元繁のほかその家臣の熊谷元直・香川行景らを討ち取る戦功をあげた。

武田軍5,000に対して、毛利・吉川軍は1,000と寡兵ながらも勝利したため「西の桶狭間」とも呼ばれる。

これをきっかけに安芸武田氏は衰退を辿っていったのであった。

鏡山城の戦い(かがみやまじょうのたたかい)

1523年6月13日

広島県東広島市西条町

蔵田房信

LOSE

第一次桜尾城の戦い(だいいちじさくらおじょうのたたかい)

1523年7月24日 ~ 10月10日

広島県廿日市市桜尾本町

友田興藤

LOSE

大内義興と共に行動していた友田興藤は、義興に厳島神社の神主職の裁定を愁訴するが、大内氏はこれを却下し歴代神主の居城である安芸桜尾城や己斐城などに城番を配置し厳島神社領を支配下に置いた。

そのため友田興藤は大永三年(1523年)4月、有田中井手の戦いで敗死した武田元繁の後を継いだ子の武田光和と結んで接収された城を奪取する。

これに対し、義興は兵を率いて桜尾城を包囲する。

友田興藤は神主家の家臣団でもある神領衆と共に攻撃を防ぐも、10月10日に興藤の甥である兼藤を厳島神主都することを条件に和睦し、大内氏による神領支配を受け入れた。

銀山城の戦い(ぎんやまじょうのたたかい)

1524年7月10日

広島県広島市安佐南区祇園町

大野弾正

DRAW

香川吉景

三須房清

DRAW


鏡山城などを奪われた大内義興義隆父子は、大永4年(1524年)に反撃に転じ、尼子経久が伯耆国に出陣している間を狙って、5月下旬に25,000の軍勢で安芸に侵入し、厳島に本陣を構えた。

武田光和と桜尾城主・友田興藤の率いる軍勢は、友田方の大野弾正が籠もる門山城の後詰として大野女滝に出陣するが、大野弾正が大内方に内応して城に火を放ったために、武田・友田軍は敗北する。
大内軍の追撃で武田軍は70〜80人が討ち取られた(大野女滝の戦い)。

大内軍は、本陣を門山城に移すと、義興の率いる本隊10,000が桜尾城を、嫡子の大内義隆を大将とする別働隊15,000が光和の居城である佐東銀山城を包囲した。
義隆はこの戦いが初陣であり、大内氏の重臣である陶興房らが加わっている。

陰徳太平記によると、大内軍が佐東銀山城付近に布陣していた頃、熊谷信直や香川吉景などの武田方国人衆1,000騎余は”坂の上”と呼ばれるところに陣を置いて、大内軍の様子を見ていた。
興房は、国人衆が尾根伝いに城内に入るなら国人らの領地を先に攻めれば良く、そうしないとしても少数なので各個撃破できると判断していたが、杉氏と問田氏は6月27日の早朝に手勢を率いて坂の上を勝手に襲撃しようとした。
しかし、杉・問田勢1,500騎の朝駆けは熊谷・香川勢に見抜かれてしまい、伏兵により返り討ちにされている。

7月3日、城兵3,000と共に籠城していた光和は、城外に出て大内の大軍と戦った。
武田軍は少数であったが奮戦し、日暮れまで勝敗は決しなかった。
この戦いでは、怪力で知られる光和自身が兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っている。

一方、毛利元就からの急使により大内軍の安芸攻めを知った尼子経久は、銀山城を救援するため伯耆から出雲飯石郡赤穴まで引き返し、軍5,000を派遣。
尼子方に属していた毛利元就を初めとする安芸国人衆を引き連れ、大内軍と対峙した。
7月10日に大内軍と尼子軍の合戦が行われ、牛尾氏・亀井氏が率いていた尼子氏直属の軍勢が先陣として戦うが、義隆の初陣で士気の高い大内軍が第2陣(平賀氏・宍戸氏・三吉氏・宮氏の軍勢)まで撃ち破って勝利した。この時元就は、吉川・小早川・熊谷・香川・三須の手勢と共に尼子軍第3陣として控えていた。

8月5日の夜、尼子軍は悪天候を突いて夜襲を行った。
この夜襲は、元就の提案により行われたもので、夜襲部隊は元就に加えて熊谷信直・香川光景・三須房清などの安芸国人衆を中心に編成されていた。
襲撃を受けた大内陣営は520余名が討たれた(毛利軍の被害は20余名とされる)ため、義隆の初陣に泥を塗らせないために、同月10日に大内軍は撤退した。

尼子軍の救援により安芸武田氏は佐東銀山城を守りきったものの、友田氏の桜尾城は10月10日に大内方に降伏(二の丸まで大内軍に攻められてもなお抗戦を続けていたが、吉見頼興の仲介で講和に応じた)、大内軍の安芸侵攻は一定の成果を挙げた。
また、翌5年(1525年)3月には、毛利氏が尼子氏を離反して大内方についたため、安芸を巡る情勢は大内氏が優勢となった。
なお、享禄元年(1528年)にも大内義興・義隆の軍勢が再び安芸に出兵して佐東銀山城を包囲しているが、義興の病により城を落とせずに帰国している(義興は同年死去した)。

米山城の戦い(こめやまじょうのたたかい)

1525年6月26日

広島県東広島市志和町志和東

WIN

LOSE

細沢山の戦い(ほそさわやまのたたかい)

1527年8月9日

広島県三次市和知町

LOSE

WIN

三入高松城の戦い(みいりたかまつじょうのたたかい)

1533年8月10日

広島県広島市安佐北区可部町


天文2年(1533年)安芸武田氏から離反した重臣の熊谷信直毛利元就と和議を結び、以後毛利氏の重臣となっていった。
同年、熊谷氏の旧主・安芸武田氏の武田光和による攻撃を受けたが三入高松城は落城せず、その防御能力の高さを見せ付けた。

山吹城の戦い(やまぶきじょうのたたかい)

1537年8月16日

島根県大田市大森町

大内義隆方城番衆

LOSE

神辺城の戦い(かんなべじょうのたたかい)

1538年7月

広島県福山市神辺町

山名忠勝

LOSE

郡山城の戦い(こおりやまじょうのたたかい)

1540年9月5日 ~ 1541年1月13日

広島県安芸高田市吉田町

第二次桜尾城の戦い(だいにじさくらおじょうのたたかい)

1541年4月5日

広島県廿日市市桜尾本町

黒川隆尚

杉隆真

WIN

友田興藤

友田広就

LOSE

大永3年(1523年)の第一次桜尾城の戦いで大内氏と和睦した厳島神社神主の友田興藤は、郡山城の戦いに大内義隆が援軍を送った間隙をぬって、天文10年(1541年)正月12日、大内氏を離反し伊予の能島村上氏とともに桜尾城を奪取する。

しかし翌13日には、郡山城の戦いが大内方の勝利で終結したため、15日には大内水軍を率いる黒川隆尚が厳島を奪回。

4月5日には大内義隆の軍勢に桜尾城が攻撃されることとなった。

大内軍は弘中隆兼の援軍もあり桜尾城を攻略した。

厳島神領衆に見限られた友田興藤は火をかけて自刃し、その子の友田広就は安芸五日市で殺されている。

その後桜尾城には大内家臣の杉隆真が佐伯景教と名乗って新たな当主となった。

銀山城の戦い(かなやまじょうのたたかい)

1541年5月13日

広島県広島市安佐南区祇園町

武田信重

LOSE

安芸守護であった武田氏は、毛利元就の台頭と対照的に勢威が衰えながらも出雲の尼子氏に支えられて持ちこたえていた。

武田信実は出雲の尼子氏に安芸武田氏復興の支援を要請し、それに応えた尼子詮久(晴久)は尼子氏家臣の牛尾幸清に2000の兵を与えて銀山城に入城させた。

そして自身は3万の兵を率いて、勢力を拡大する毛利軍を攻略するため毛利氏の居城吉田郡山城の近くに布陣した。

しかし毛利・大内連合軍に郡山城の戦いで敗北すると、尼子軍は出雲に退却した。

尼子氏の敗走を知り、大内氏との講和を巡る家臣団の対立を解消できず、安芸の国衆や居城の銀山城でも退去する家臣が続出したため、孤立した武田信実は銀山城を捨て出雲に逃れた。

その後は、武田氏の一族である武田信重が銀山城を兵300で守っていたが、 大内義隆の命を受けた陶隆房毛利元就に攻められ、5月13日に降伏開城する。

佐東銀山城を落とすにあたり、毛利元就は火を点けた草鞋1000足を夜の太田川に流すことで城兵の注意を大手(表)に引きつけ、搦め手(裏)から急襲し、城兵を総崩れにさせている。

太田川岸には千足(広島市東区戸坂)という地名が残っている。

銀山城の落城により、武田氏は滅亡したのである。

赤穴城の戦い(あかなじょうのたたかい)

1542年4月 ~ 7月27日

島根県飯石郡飯南町

天文9年(1540年)8月、尼子晴久(詮人)は、毛利元就の拠る安芸国郡山城を攻略するため出陣したが、大内義隆から派遣された陶晴賢の率いる援軍もあり敗北してしまった(郡山城の戦い)。

この敗北により、尼子方は多くの将兵を失い、尼子氏に従っていた国人領主らの多くが大内方へ離反した。

天文11年(1542年)正月11日、大内義隆はこの勢いに乗じて、ついに尼子氏を討つため出雲攻めの兵を興す。

義隆は嫡子・大内晴持や陶晴賢杉重矩内藤興盛ら直属の1万5000余の軍勢を率いて山口の築山館を出陣する。

安芸国を経由して、安芸国の毛利元就宍戸隆家平賀隆宗 吉川興経小早川正平天野興定熊谷信直らの軍勢と、備後国の三吉広隆山名(杉原)理興多賀山通続山内隆通らの将兵と合流し、3月には石見国でも本城常光益田藤兼らの軍勢をも糾合し、総勢4万余の大軍に膨れ上がった。

4月、出雲・石見・ 備後と境を接し、尼子十旗のひとつである赤穴城に攻撃を開始する。

赤穴城は堅固な要害を備えていたことに加えて月山富田城からの援兵を得て兵力も増強させていたため、4万の軍勢の攻撃でも落ちる気配がなかった。

しかし、7月27日、城主の赤穴光清が不運にも流れ矢に当たって討死したため、城兵は光清の妻子の助命を条件として降伏した。

城兵3000余は、尼子氏の本城である出雲富田城に落ちていった。

第一次月山富田城の戦い(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)

1543年3月 ~ 5月7日

島根県安来市広瀬町富田

赤穴城を落とした大内義隆は勢いに乗じ、天文12年(1543年)3月、尼子晴久の居城である出雲の月山富田城に攻撃を開始する。

大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房杉重矩内藤興盛冷泉隆豊弘中隆包らが兵を率いていた。

また、義隆の養嗣子の大内晴持も併せて出陣していた。

毛利軍も毛利元就小早川正平益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。

しかし、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に失敗したり、出陣して1年を過ぎていた大勢の士気は下がっていたり、城攻めは難航する。

そして4月末には、尼子方から大内方に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶三沢為清本城常光吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。

城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。

5月7日、劣勢が明白となった大内軍は撤退を開始し、出雲意宇郡出雲浦へ退いた。

尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。

このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。

義隆は宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月25日に山口に帰還する。

しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。

殿を命じられていた毛利軍は、沼田小早川正平らが討死するなど過酷を強いられながら安芸への撤退を続けるも、石見の山吹城から繰り出された尼子軍の追撃によって、石見国の大江坂七曲りで元就と嫡子の隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。

この時、毛利家臣の渡辺通元就の甲冑を着て身代わりとなり、内藤九郎右衛門元茂・波多野源兵衛・井上与三右衛門元有・井上源左衛門・三戸与五郎・三戸小三郎ら7人が囮役となり追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。

現在この毛利元就が九死に一生を得た場所は、七騎坂(島根県大田市温泉津町小浜)と呼ばれている。

吉田郡山城に無事帰還した元就は、渡辺通の献身に感動し、の子・渡辺長を股肱の臣として重用している。

寵愛していた大内晴持が船の転覆により溺死したことで、義隆はそれ以降政治に対する意欲がなくなり、一方で尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ最盛期を迎える。

この遠征は1年4ヶ月にも及んだ挙句敗戦し、大内氏衰退の一因となった。

布野の戦い(ふのじょうのたたかい)

1544年7月28日

広島県三次市布野町下布野

LOSE

WIN

神辺城の戦い(かんなべじょうのたたかい)

1548年6月18日 ~ 1549年9月4日

広島県福山市神辺町

山名理興

LOSE

大寧寺の変(たいねいじのへん)

1551年9月1日

山口県長門市深川湯本

WIN

LOSE

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名称 読み方 読み方(旧) 石高
近江 おうみ ちかつあふみ 78万石
美濃 みの みの 54万石
飛騨 ひだ ひだ 4万石
信濃 しなの しなの 41万石
上野 こうづけ かみつけの 50万石
下野 しもつけ しもつけの 37万石
出羽 でわ いでは 32万石
陸奥 むつ みちのをく 167万石
若狭 わかさ わかさ 9万石
越前 えちぜん こしのみちのくち 50万石
加賀 かが かが 36万石
能登 のと のと 21万石
越中 えっちゅう こしのみちのなか 38万石
越後 えちご こしのみちのしり 39万石
佐渡 さど さど 2万石
伊賀 いが いが 10万石
伊勢 いせ いせ 57万石
志摩 しま しま 2万石
尾張 おわり おはり 57万石
三河 みかわ みかは 29万石
遠江 とおとおみ とほたあふみ 26万石
駿河 するが するが 15万石
伊豆 いず いづ 7万石
甲斐 かい かひ 23万石
相模 さがみ さかみ 19万石
武蔵 むさし むさし 67万石
安房 あわ あは 9万石
上総 かずさ かみつふさ 38万石
下総 しもうさ しもつふさ 39万石
常陸 ひたち ひたち 53万石
大和 やまと やまと 45万石
山城 やましろ やましろ 23万石
摂津 せっつ 36万石
河内 こうち かふち 24万石
和泉 いづみ いずみ 14万石
丹波 たんば たんば 26万石
丹後 たんご たにはのみちのしり 11万石
但馬 たじま たちま 11万石
因幡 いなば いなは 9万石
伯耆 ほうき ははき 10万石
出雲 いずも いづも 19万石
石見 いわみ いはみ 11万石
隠岐 おき をき 5万石
播磨 はりま はりま 36万石
美作 みまさか みまさか 19万石
備前 びぜん きびのみちのくち 22万石
備中 びっちゅう きびのみちのなか 18万石
備後 びんご きびのみちのしり 19万石
安芸 あき あき 19万石
周防 すおう すはう 17万石
長門 ながと ながと 13万石
紀伊 きい 24万石
淡路 あわじ あはぢ 6万石
阿波 あわ あは 18万石
讃岐 さぬき さぬき 13万石
伊予 いよ いよ 37万石
土佐 とさ とさ 10万石
筑前 ちくぜん ちくしのみちのくち 34万石
筑後 ちくご ちくしのみちのしり 27万石
豊前 ぶぜん とよくにのみちのくち 14万石
豊後 ぶんご とよくにのみちのしり 42万石
肥前 びぜん ひのみちのくち 31万石
肥後 びご ひのみちのしり 34万石
日向 ひゅうが ひうか 12万石
大隅 おおすみ おほすみ 18万石
薩摩 さつま さつま 28万石
壱岐 いき ゆき 2万石
対馬 つしま つしま 1万石
近江 美濃 飛騨 信濃 上野 下野 出羽(羽前 - 羽後) 陸奥(岩代 - 磐城 - 陸前 - 陸中 - 陸奥) 若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡 伊賀 伊勢 志摩 尾張 三河 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 大和 山城 摂津 河内 和泉 丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆 出雲 石見 隠岐 播磨 美作 備前 備中 備後 安芸 周防 長門 紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐 筑前 筑後 豊前 豊後 肥前 肥後 日向 大隅 薩摩 壱岐 対馬
近江
美濃
飛騨
信濃
上野
下野
出羽
陸奥
若狭
越前
加賀
能登
越中
越後
佐渡
伊賀
伊勢
志摩
尾張
三河
遠江
駿河
伊豆
甲斐
相模
武蔵
安房
上総
下総
常陸
大和
山城
摂津
河内
和泉
丹波
丹後
但馬
因幡
伯耆
出雲
石見
隠岐
播磨
美作
備前
備中
備後
安芸
周防
長門
紀伊
淡路
阿波
讃岐
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
豊後
肥前
肥後
日向
大隅
薩摩
壱岐
対馬