大内義興・義隆の興亡
大内義興・義隆の興亡
1515年
大内義隆と尼子経久
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己斐城の戦い(こいじょうのたたかい)
1515年
広島県広島市西区己斐上
永正12年(1515年)、大内義興に従って上洛していた安芸の分郡守護の武田元繁は、国内の混乱を鎮圧するために帰国を命じられると、自らの勢力を拡大させるために義興に反旗を翻す。
大内義興は武田元繁が離反しないように養女の権大納言飛鳥井雅俊の娘を元繁に嫁がせていたが、元繁は義興の養女と離縁すると、出雲の尼子経久の弟である久幸の娘を継室に迎えた。
尼子氏の支援を受けた元繁は、義興に従う己斐宗端の居城の安芸己斐城を攻撃し数か月にわたり包囲する。
しかし元繁の動きに対して義興は、毛利興元・吉川元経に己斐城救援を命じ、元繁の属城である安芸有田城を攻略させたため、元繁は己斐城の包囲を解いて退却している。
有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい)
1517年10月22日
広島県山県郡北広島町有田
毛利元就の初陣となる戦いとしても知られる。
永正13年(1516年)8月に毛利興元が死去すると、その子の幸松丸が2歳で当主となった。
叔父の毛利元就が後見役となるが、元就も二十歳であったため、これを好機と見た武田元繁は己斐城の戦いで毛利方に奪われていた有田城を奪還するべく永正14年(1517年)10月22日これを攻撃した。
毛利元就は吉田郡山城への救援を要請し、弟の相合元綱や桂元澄・井上氏・坂氏・渡辺勝・福原貞俊・口羽氏・赤川氏・粟屋氏・児玉氏らを主力とし武田軍にあたる。
毛利元就や吉川元経らは有田城外で打って出て、武田元繁のほかその家臣の熊谷元直・香川行景らを討ち取る戦功をあげた。
武田軍5,000に対して、毛利・吉川軍は1,000と寡兵ながらも勝利したため「西の桶狭間」とも呼ばれる。
これをきっかけに安芸武田氏は衰退を辿っていったのであった。
鏡山城の戦い(かがみやまじょうのたたかい)
1523年6月13日
広島県東広島市西条町
第一次桜尾城の戦い(だいいちじさくらおじょうのたたかい)
1523年7月24日 ~ 10月10日
広島県廿日市市桜尾本町
大内義興と共に行動していた友田興藤は、義興に厳島神社の神主職の裁定を愁訴するが、大内氏はこれを却下し歴代神主の居城である安芸桜尾城や己斐城などに城番を配置し厳島神社領を支配下に置いた。
そのため友田興藤は大永三年(1523年)4月、有田中井手の戦いで敗死した武田元繁の後を継いだ子の武田光和と結んで接収された城を奪取する。
これに対し、義興は兵を率いて桜尾城を包囲する。
友田興藤は神主家の家臣団でもある神領衆と共に攻撃を防ぐも、10月10日に興藤の甥である兼藤を厳島神主都することを条件に和睦し、大内氏による神領支配を受け入れた。
銀山城の戦い(ぎんやまじょうのたたかい)
1524年7月10日
広島県広島市安佐南区祇園町
鏡山城などを奪われた大内義興・義隆父子は、大永4年(1524年)に反撃に転じ、尼子経久が伯耆国に出陣している間を狙って、5月下旬に25,000の軍勢で安芸に侵入し、厳島に本陣を構えた。
武田光和と桜尾城主・友田興藤の率いる軍勢は、友田方の大野弾正が籠もる門山城の後詰として大野女滝に出陣するが、大野弾正が大内方に内応して城に火を放ったために、武田・友田軍は敗北する。
大内軍の追撃で武田軍は70〜80人が討ち取られた(大野女滝の戦い)。
大内軍は、本陣を門山城に移すと、義興の率いる本隊10,000が桜尾城を、嫡子の大内義隆を大将とする別働隊15,000が光和の居城である佐東銀山城を包囲した。
義隆はこの戦いが初陣であり、大内氏の重臣である陶興房らが加わっている。
陰徳太平記によると、大内軍が佐東銀山城付近に布陣していた頃、熊谷信直や香川吉景などの武田方国人衆1,000騎余は”坂の上”と呼ばれるところに陣を置いて、大内軍の様子を見ていた。
興房は、国人衆が尾根伝いに城内に入るなら国人らの領地を先に攻めれば良く、そうしないとしても少数なので各個撃破できると判断していたが、杉氏と問田氏は6月27日の早朝に手勢を率いて坂の上を勝手に襲撃しようとした。
しかし、杉・問田勢1,500騎の朝駆けは熊谷・香川勢に見抜かれてしまい、伏兵により返り討ちにされている。
7月3日、城兵3,000と共に籠城していた光和は、城外に出て大内の大軍と戦った。
武田軍は少数であったが奮戦し、日暮れまで勝敗は決しなかった。
この戦いでは、怪力で知られる光和自身が兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っている。
一方、毛利元就からの急使により大内軍の安芸攻めを知った尼子経久は、銀山城を救援するため伯耆から出雲飯石郡赤穴まで引き返し、軍5,000を派遣。
尼子方に属していた毛利元就を初めとする安芸国人衆を引き連れ、大内軍と対峙した。
7月10日に大内軍と尼子軍の合戦が行われ、牛尾氏・亀井氏が率いていた尼子氏直属の軍勢が先陣として戦うが、義隆の初陣で士気の高い大内軍が第2陣(平賀氏・宍戸氏・三吉氏・宮氏の軍勢)まで撃ち破って勝利した。この時元就は、吉川・小早川・熊谷・香川・三須の手勢と共に尼子軍第3陣として控えていた。
8月5日の夜、尼子軍は悪天候を突いて夜襲を行った。
この夜襲は、元就の提案により行われたもので、夜襲部隊は元就に加えて熊谷信直・香川光景・三須房清などの安芸国人衆を中心に編成されていた。
襲撃を受けた大内陣営は520余名が討たれた(毛利軍の被害は20余名とされる)ため、義隆の初陣に泥を塗らせないために、同月10日に大内軍は撤退した。
尼子軍の救援により安芸武田氏は佐東銀山城を守りきったものの、友田氏の桜尾城は10月10日に大内方に降伏(二の丸まで大内軍に攻められてもなお抗戦を続けていたが、吉見頼興の仲介で講和に応じた)、大内軍の安芸侵攻は一定の成果を挙げた。
また、翌5年(1525年)3月には、毛利氏が尼子氏を離反して大内方についたため、安芸を巡る情勢は大内氏が優勢となった。
なお、享禄元年(1528年)にも大内義興・義隆の軍勢が再び安芸に出兵して佐東銀山城を包囲しているが、義興の病により城を落とせずに帰国している(義興は同年死去した)。
米山城の戦い(こめやまじょうのたたかい)
1525年6月26日
広島県東広島市志和町志和東
細沢山の戦い(ほそさわやまのたたかい)
1527年8月9日
広島県三次市和知町
三入高松城の戦い(みいりたかまつじょうのたたかい)
1533年8月10日
広島県広島市安佐北区可部町
天文2年(1533年)安芸武田氏から離反した重臣の熊谷信直は毛利元就と和議を結び、以後毛利氏の重臣となっていった。
同年、熊谷氏の旧主・安芸武田氏の武田光和による攻撃を受けたが三入高松城は落城せず、その防御能力の高さを見せ付けた。
山吹城の戦い(やまぶきじょうのたたかい)
1537年8月16日
島根県大田市大森町
神辺城の戦い(かんなべじょうのたたかい)
1538年7月
広島県福山市神辺町
郡山城の戦い(こおりやまじょうのたたかい)
1540年9月5日 ~ 1541年1月13日
広島県安芸高田市吉田町
第二次桜尾城の戦い(だいにじさくらおじょうのたたかい)
1541年4月5日
広島県廿日市市桜尾本町
大永3年(1523年)の第一次桜尾城の戦いで大内氏と和睦した厳島神社神主の友田興藤は、郡山城の戦いに大内義隆が援軍を送った間隙をぬって、天文10年(1541年)正月12日、大内氏を離反し伊予の能島村上氏とともに桜尾城を奪取する。
しかし翌13日には、郡山城の戦いが大内方の勝利で終結したため、15日には大内水軍を率いる黒川隆尚が厳島を奪回。
4月5日には大内義隆の軍勢に桜尾城が攻撃されることとなった。
大内軍は弘中隆兼の援軍もあり桜尾城を攻略した。
厳島神領衆に見限られた友田興藤は火をかけて自刃し、その子の友田広就は安芸五日市で殺されている。
その後桜尾城には大内家臣の杉隆真が佐伯景教と名乗って新たな当主となった。
銀山城の戦い(かなやまじょうのたたかい)
1541年5月13日
広島県広島市安佐南区祇園町
安芸守護であった武田氏は、毛利元就の台頭と対照的に勢威が衰えながらも出雲の尼子氏に支えられて持ちこたえていた。
武田信実は出雲の尼子氏に安芸武田氏復興の支援を要請し、それに応えた尼子詮久(晴久)は尼子氏家臣の牛尾幸清に2000の兵を与えて銀山城に入城させた。
そして自身は3万の兵を率いて、勢力を拡大する毛利軍を攻略するため毛利氏の居城吉田郡山城の近くに布陣した。
しかし毛利・大内連合軍に郡山城の戦いで敗北すると、尼子軍は出雲に退却した。
尼子氏の敗走を知り、大内氏との講和を巡る家臣団の対立を解消できず、安芸の国衆や居城の銀山城でも退去する家臣が続出したため、孤立した武田信実は銀山城を捨て出雲に逃れた。
その後は、武田氏の一族である武田信重が銀山城を兵300で守っていたが、 大内義隆の命を受けた陶隆房・毛利元就に攻められ、5月13日に降伏開城する。
佐東銀山城を落とすにあたり、毛利元就は火を点けた草鞋1000足を夜の太田川に流すことで城兵の注意を大手(表)に引きつけ、搦め手(裏)から急襲し、城兵を総崩れにさせている。
太田川岸には千足(広島市東区戸坂)という地名が残っている。
銀山城の落城により、武田氏は滅亡したのである。
赤穴城の戦い(あかなじょうのたたかい)
1542年4月 ~ 7月27日
島根県飯石郡飯南町
大内晴持
WIN
LOSE
天文9年(1540年)8月、尼子晴久(詮人)は、毛利元就の拠る安芸国郡山城を攻略するため出陣したが、大内義隆から派遣された陶晴賢の率いる援軍もあり敗北してしまった(郡山城の戦い)。
この敗北により、尼子方は多くの将兵を失い、尼子氏に従っていた国人領主らの多くが大内方へ離反した。
天文11年(1542年)正月11日、大内義隆はこの勢いに乗じて、ついに尼子氏を討つため出雲攻めの兵を興す。
義隆は嫡子・大内晴持や陶晴賢・杉重矩・内藤興盛ら直属の1万5000余の軍勢を率いて山口の築山館を出陣する。
安芸国を経由して、安芸国の毛利元就・宍戸隆家・平賀隆宗 ・吉川興経・小早川正平・天野興定・熊谷信直らの軍勢と、備後国の三吉広隆・山名(杉原)理興・多賀山通続・山内隆通らの将兵と合流し、3月には石見国でも本城常光・益田藤兼らの軍勢をも糾合し、総勢4万余の大軍に膨れ上がった。
4月、出雲・石見・ 備後と境を接し、尼子十旗のひとつである赤穴城に攻撃を開始する。
赤穴城は堅固な要害を備えていたことに加えて月山富田城からの援兵を得て兵力も増強させていたため、4万の軍勢の攻撃でも落ちる気配がなかった。
しかし、7月27日、城主の赤穴光清が不運にも流れ矢に当たって討死したため、城兵は光清の妻子の助命を条件として降伏した。
城兵3000余は、尼子氏の本城である出雲富田城に落ちていった。
第一次月山富田城の戦い(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)
1543年3月 ~ 5月7日
島根県安来市広瀬町富田
大内晴持
福島源三郎親弘
右田弥四郎
LOSE
赤穴城を落とした大内義隆は勢いに乗じ、天文12年(1543年)3月、尼子晴久の居城である出雲の月山富田城に攻撃を開始する。
大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。
また、義隆の養嗣子の大内晴持も併せて出陣していた。
毛利軍も毛利元就、小早川正平、益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。
しかし、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に失敗したり、出陣して1年を過ぎていた大勢の士気は下がっていたり、城攻めは難航する。
そして4月末には、尼子方から大内方に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。
城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。
5月7日、劣勢が明白となった大内軍は撤退を開始し、出雲意宇郡出雲浦へ退いた。
尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。
このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。
義隆は宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月25日に山口に帰還する。
しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。
殿を命じられていた毛利軍は、沼田小早川正平らが討死するなど過酷を強いられながら安芸への撤退を続けるも、石見の山吹城から繰り出された尼子軍の追撃によって、石見国の大江坂七曲りで元就と嫡子の隆元は自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。
この時、毛利家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、内藤九郎右衛門元茂・波多野源兵衛・井上与三右衛門元有・井上源左衛門・三戸与五郎・三戸小三郎ら7人が囮役となり追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。
現在この毛利元就が九死に一生を得た場所は、七騎坂(島根県大田市温泉津町小浜)と呼ばれている。
吉田郡山城に無事帰還した元就は、渡辺通の献身に感動し、通の子・渡辺長を股肱の臣として重用している。
寵愛していた大内晴持が船の転覆により溺死したことで、義隆はそれ以降政治に対する意欲がなくなり、一方で尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ最盛期を迎える。
この遠征は1年4ヶ月にも及んだ挙句敗戦し、大内氏衰退の一因となった。
布野の戦い(ふのじょうのたたかい)
1544年7月28日
広島県三次市布野町下布野
神辺城の戦い(かんなべじょうのたたかい)
1548年6月18日 ~ 1549年9月4日
広島県福山市神辺町
大寧寺の変(たいねいじのへん)
1551年9月1日
山口県長門市深川湯本
この合戦に登場する武将
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尼子久幸 (あまごひさゆき)
尼子家臣。主君・晴久(兄・経久の孫)の安芸侵攻策に反対し「臆病野州」と非難される。結局尼子軍は大敗、退却軍の殿軍を受け持ち、奮戦したが戦死した。
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毛利元就 (もうりもとなり)
安芸の戦国大名。権謀術数を駆使して勢力を拡大、中国10カ国の主となった稀代の謀将。厳島合戦では数々の謀略で陶晴賢を翻弄、5倍の兵力の敵を破った。
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桂元澄 (かつらもとずみ)
毛利家臣。安芸桜尾城主を務め、厳島神社を含む神領の管理・支配を担当した。厳島合戦の際は陶晴賢に偽の書簡を送り晴賢を厳島へ誘き出すことに成功した。
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福原貞俊 (ふくはらさだとし)
毛利家臣。筆頭家老を務めた。小早川隆景を補佐して山陽方面の経略を行う。主君・元就の死後、四人衆の1人となり当主・輝元を補佐して主家の国政に参画。
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尼子経久 (あまごつねひさ)
出雲の戦国大名。京極家に仕えるが、所領押領の罪で出雲守護代を罷免される。のちに居城・月山富田城を奪回して勢力を広げ、中国11カ国の太守となった。
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大内義興 (おおうちよしおき)
大内家30代当主。逃れてきた前将軍足利義稙を擁し、細川高国と結んで上洛。管領代として10年幕府政治を司る。帰国後は尼子や安芸武田家と戦った。
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大内義隆 (おおうちよしたか)
大内家31代当主。7カ国の守護を務め中国・九州に覇を唱えた。養嗣子・晴持の死後は文事に傾倒して独自の文化を築くが、家臣・陶晴賢の謀叛に遭い自害。
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陶興房 (すえおきふさ)
大内家臣。周防守護代を務める。主君・義興に従い上洛したほか、安芸や九州に出陣するなど、各地で活躍した。和歌・連歌に優れ、文化人とも交流を持った。
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武田光和 (たけだみつかず)
安芸武田家10代当主。佐東銀山城主。尼子家に属した。たびたび大内家に攻められるが、家臣団の奮闘で城を守る。しかしのちに家臣団の離反を自ら招いた。
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熊谷信直 (くまがいのぶなお)
安芸武田家臣。のちに主家と対立し、毛利家に属す。娘が元就の次男・吉川元春に嫁いでからは一門衆として重用され、吉川軍の先鋒を務めて各地で奮戦した。
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天野興定 (あまのおきさだ)
安芸の豪族。大内家より離反して尼子家と結ぶ。のち大内義興の命を受けた陶興房に攻撃され、毛利元就の仲介により降伏。以後は大内家、毛利家に味方した。
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尼子晴久 (あまごはるひさ)
出雲の戦国大名。祖父・経久の死後家督を継ぐ。積極的な外征戦略を行い、尼子家の最大版図を築く。脆弱な支配体制を固めるため、新宮党の粛清を行った。
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杉原理興 (すぎはらまさおき)
大内家臣。山名忠勝の拠る神辺城を攻略し、居城とする。主家が出雲遠征に失敗すると尼子家に寝返り、攻撃を受けて出雲に逃走した。のちに神辺城に戻った。
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山名誠通 (やまなのぶみち)
因幡守護。豊頼の子。左馬助と称す。但馬山名家を継いだ祐豊と対立し、尼子家と結び自立を図るが、祐豊との戦いに敗れて戦死し、因幡山名家は断絶した。
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弘中隆兼 (ひろなかたかかね)
大内家臣。安芸守護代を務めた。陶晴賢の謀叛後は大内義長に仕える。のちに晴賢の命により江良房栄を謀殺した。晴賢に従って厳島合戦に従軍し、敗死した。
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陶隆房 (すえたかふさ)
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武田信実 (たけだのぶざね)
安芸武田家11代当主。光和の死後、若狭武田家より当主に迎えられた。尼子家に属すが、尼子家が郡山合戦で敗れたあと毛利軍の攻撃を受け出雲に逃亡した。
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陶晴賢 (すえはるかた)
大内家臣。興房の子。「西国無双の侍大将」と評された。主君・義隆を自害させ大友晴英を当主に迎えて主家を傀儡化した。厳島合戦で毛利元就に敗れ、自害。
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杉重矩 (すぎしげのり)
大内家臣。豊前守護代を務めた。はじめ陶晴賢と対立するが、晴賢の謀叛に同調し、主君・義隆を自害させた。のち再び晴賢と対立して敗れ、長門で自害した。
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内藤興盛 (ないとうおきもり)
大内家臣。宿老として大内義隆を支えるが、義隆に疎まれ、政治から遠ざけられた。陶晴賢の謀叛を黙認し、直後に隠居した。文人として声望があった。
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宍戸隆家 (ししどたかいえ)
安芸の豪族。毛利元就と争うが、のちに元就の娘・五龍を娶って和睦し、毛利家の一門衆となる。吉川元春と軍事行動をともにし、各地の合戦で活躍した。
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平賀隆宗 (ひらがたかむね)
安芸の豪族。祖父・弘保とともに大内家に属し、尼子家に属した父・興貞と2度に渡って激しい争いを繰り広げた。のちに備後神辺城攻撃に従軍し、戦死した。
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吉川興経 (きっかわおきつね)
安芸の豪族。尼子家と大内家の間で裏切りを繰り返し、家中の分裂を招く。毛利元就から次男・元春を養嗣子として送り込まれ、その直後に殺された。
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小早川正平 (こばやかわまさひら)
安芸の豪族。大内家に属した。のち尼子方への転身をはかるが、大内家に居城・高山城を占拠されて失敗した。大内家の出雲遠征に従軍し、退却中に戦死した。
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三吉広高 (みよしひろたか)
毛利家臣。比熊山城主。隆亮の子。関ヶ原合戦後、主家が防長に移封され居城は廃されたため、浪人となり京都に上る。のち安芸広島藩主・浅野長晟に仕えた。
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多賀山通続 (たかのやまみちつぐ)
備後の豪族。山内豊通の娘を娶る。尼子家からの独立をはかったため居城・蔀山城を攻められるが、大風雨のため落城を免れたという。のちに毛利家に仕えた。
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山内隆通 (やまのうちたかみち)
備後の豪族。多賀山通続の子。宗家の山内直通が尼子家から大内・毛利家に寝返ろうとし、尼子家に廃されたため、宗家の家督を継いだ。のち毛利家に属した。
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本城常光 (ほんじょうつねみつ)
尼子家臣。山吹城主を務め、大森銀山を守る。毛利元就や吉川元春の攻撃を撃退し、勇名を馳せた。のち元就に降伏するが、その豪勇を恐れた元就に殺された。
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益田藤兼 (ますだふじかね)
大内家臣。益田城主。主家滅亡後は毛利家に従い、山陰平定戦で活躍した。晩年は仏教を厚く信仰した。家臣・品川大膳は山中幸盛と一騎討ちをして敗れた。
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赤穴光清 (あかなみつきよ)
尼子家臣。瀬戸山城主。久清の嫡男。大内義隆の出雲侵攻軍に抵抗し、毛利家臣の熊谷直続を討ち取るなど活躍したが、陶晴賢の家臣に喉を射られ、戦死した。
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冷泉隆豊 (れいぜいたかとよ)
大内家臣。安芸銀山城主を務めた。陶晴賢が謀叛すると主君・義隆に従って長門に逃亡し、義隆の介錯を行った。義隆の死後は陶軍と戦い、凄絶な死を遂げた。
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毛利隆元 (もうりたかもと)
安芸の戦国大名。元就の嫡男。大内家の人質となり、大内義隆から加冠され元服した。父の後見を受けて中国経略に従事するが、出雲遠征に向かう途中に急死。
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渡辺通 (わたなべとおる)
毛利家臣。相合元綱の擁立を企んで殺された勝の子。大内義隆が出雲遠征で大敗した際、殿軍を受け持つ主君・元就を救い、郎党とともに壮絶な戦死を遂げた。
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三刀屋久扶 (みとやひさすけ)
尼子家臣。主家が毛利家攻めに敗れると大内家に寝返る。しかし、大内家が尼子家攻めに失敗すると、再び尼子家に帰属するが、その後また毛利家に降った。
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三沢為清 (みさわためきよ)
尼子家臣。三沢城主。一時大内義隆に属すが、義隆の出雲侵攻が失敗した際に帰順した。のちに毛利元就の出雲侵攻軍に降伏した。子孫は長府毛利家に仕えた。