斎藤道三の興亡
斎藤道三の興亡
1542年8月
斎藤道三と斎藤義龍
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大桑城の戦い(おおがじょうのたたかい)
1542年8月23日
岐阜県山県市大桑
天文5年(1536年)、斎藤利政(道三)に擁立された土岐頼芸が美濃守護職を得たが、大桑城に拠る甥の土岐頼純との家督争いは続いていた。
天文11年(1542年)8月、頼芸は利政とともに大桑城を攻め、頼純を美濃から追放することに成功する。
しかし傀儡にすぎない頼芸が実権を握ることはできず、頼純は尾張の織田信秀の仲介で和睦し帰城した。
天文16年(1547年)に再度斎藤道三が侵攻し、大桑城は落城し土岐頼純はその時に討死している。
稲葉山城の戦い(いなばやまじょうのたたかい)
1544年9月23日
岐阜県岐阜市大宮町
難攻不落の稲葉山城
加納口の戦い(かのうぐちのたたかい)
1547年9月22日
岐阜県岐阜市加納安良町
大桑城の戦い(おおがじょうのたたかい)
1552年11月
岐阜県山県市大桑
天文16年(1547年)11月、斎藤利政(道三)が美濃に侵攻すると美濃の守護であった土岐頼純は討死した。
これにより土岐頼芸が大桑城に入るも、翌天文17年(1548年)には、後ろ盾に頼んでいた尾張の織田信秀が斎藤利政と和睦したため孤立を深めてしまう。
美濃を実質的に押さえた利政に、傀儡としての頼芸は必要なくなっていたのだろう。
天文21年(1552年)11月、利政に大桑城を攻囲された頼芸は、抗戦を諦めて落ちのびた。
妹の嫁ぎ先である近江国の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸国に寄寓した。
ここに美濃守護土岐氏は滅亡したのである。
長良川の戦い(ながらがわのたたかい)
1556年4月20日
岐阜県岐阜市道三町一帯
この合戦に登場する武将
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土岐頼芸 (ときよりのり)
美濃守護。家臣・斎藤道三と結んで兄・政頼を追放し、家督を継ぐ。しかし、のちに道三に美濃を追われた。一時和睦して帰国するが再び追放され、流浪した。
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斎藤道三 (さいとうどうさん)
「蝮」の異名をとった美濃の戦国大名。僧から油商人に転身、次いで美濃守護・土岐頼芸に仕官、頼芸を追放して国主となった。のちに子・義龍と戦い、敗死。
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朝倉宗滴 (あさくらそうてき)
朝倉家臣。朝倉家初代当主・敏景の子。軍奉行を務め、周辺諸国へ出兵し朝倉家の武威を内外に知らしめた。加賀一向一揆討伐の際に発病、帰国後に死去した。
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織田信秀 (おだのぶひで)
尾張の戦国大名。「尾張の虎」と呼ばれた猛将で、尾張統一を目指して近隣の今川家、斎藤家らと抗争を続けたが、志半ばにして流行病にかかり、急死した。
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織田信長 (おだのぶなが)
信秀の嫡男。今川義元を桶狭間で破る。以後、天下布武を標榜して敵対勢力を次々と滅ぼした。天下統一を目前にして、明智光秀の謀叛に遭い本能寺に散った。
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斎藤義龍 (さいとうよしたつ)
美濃の戦国大名。道三の子。美濃守護・土岐頼芸の子ともいう。家督を巡って父と対立、父を討って美濃国主となるが急死した。身長6尺5寸の巨漢と伝わる。