少弐氏の滅亡と龍造寺氏
少弐氏の滅亡と龍造寺氏
1536年
少弐冬尚と龍造寺家兼
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木原の戦い(きはらのたたかい)
1536年
佐賀県佐賀市木原
天文5年(1536年)、大内義隆の命を受けた陶興房の攻撃を受け少弐資元が自害に追い込まれた後、小田資光・馬場頼周らの遺臣は、資元の遺児の少弐冬尚を擁立すると、龍造寺家兼を討つため居城の水ヶ江城に迫った。
龍造寺家兼は外様の家臣(龍造寺氏は少弐氏に追われた千葉氏旧臣の家柄)であったこともあり、大内氏が主君の少弐資元を攻撃した時に積極的に救援をせず、また大内義隆に少弐氏から離反して大内氏に従うように勧められていた。
そのため資元自刃の遠因をつくったとされ、主君を見捨てた裏切り者という疑惑を受けていたのだ。
小田資光・馬場頼周らの出陣に対し、龍造寺勢は城から打って出て少弐勢を迎え撃つ。
両軍は肥前木原で衝突し、敗れた少弐勢は小田資光の居城である蓮池城に逃れた。
なお天文9年(1540年)には冬尚と家兼は和解し、家兼の嫡男の家純が冬尚の家老に迎えられており、家兼ら家臣団の助けを受けて少弐氏の再興を果たしている。
水ヶ江城の戦い(みずがえじょうのたたかい)
1545年1月22日 ~ 23日
佐賀県佐賀市水ヶ江町
天文9年(1540年)に龍造寺家兼の子である家純が少弐冬尚の家老に迎えられると、少弐家中における龍造寺氏の勢威が高まった。
勢力が大きくなり過ぎた龍造寺氏は、少弐資元を見捨てた謀反人として、資元の跡を継いだ少弐冬尚や小田資光・馬場頼周ら譜代の家臣達と対立が深まっていった。
そのため天文14年(1545年)正月、西肥前を平定した有馬晴純が東肥前に侵攻した際、冬尚配下の資光・頼周らは晴純に加勢したのである。
3万余の大軍に包囲された家兼は、城を退去して筑後国一ッ木に逃れ、柳川城主の蒲池鑑盛の保護を受けることとなった。
家兼は筑後に逃れる際、出家していた曾孫の円月(後の龍造寺隆信)を伴った。
龍造寺隆信は享禄2年(1529年)に龍造寺周家と慶誾の間に生まれた長男で、幼名を長法師丸といい、幼い時より聡明なため、天文5年(1536年)7歳で家兼の三男・豪覚和尚の宝琳院に入って中納言円月坊と号した。
水ヶ江城の戦い(みずがえじょうのたたかい)
1545年3月
佐賀県佐賀市水ヶ江町
天文14年(1545年)正月の水ヶ江城の戦いに敗れた龍造寺氏は、一族が離散を余儀なくされていた。
しかも、当主の家兼が筑後柳川で逼塞している間に、家兼の子の家純・家門と孫の周家・純家・頼純・家泰が、馬場頼周・神代勝利らによって謀殺されてしまったのである。
家兼は90歳を超えた高齢であったため、厳しい追及を受けずに済んでいる。
3月、肥前への復帰を図るために蒲池氏の支援を受け挙兵した家兼は、自らの居城であった水ヶ江城を攻撃した。
城を守る小田資光の子の政光の兵が城を明け渡したため、水ヶ江城を奪還している。
牛頭城の戦い(ごずじょうのたたかい)
1545年4月2日
佐賀県小城市小城町松尾
天文14年(1545年)3月に居城の水ヶ江城を奪還した龍造寺家兼は、一族を謀殺した馬場頼周を討つための機会をうかがう。
そのころ、頼周は龍造寺氏との戦いに備えて牛頭城(祇園城または千葉城)を修築中であったので、4月2日、少弐冬尚と対立する千葉胤連や鍋島清久ら鍋島氏の加勢を得た家兼は、この午頭城を急襲する。
不意を衝かれた馬場勢は牛頭城が建造中であったため防戦できず、綾部城へ帰還しようとした。
しかし千葉勢の追撃を受け、子の政員は野田家俊に討ち取られ、頼周は社家に走り込み芋釜の穴に隠れたが、加茂弾正という者に穴より引き摺り出されて殺害された。
家兼は祇園岳へ向かう途上の坪上という地で頼周と政員の首級を検分する。
なお、政員の室は家兼の孫娘であり、馬場父子の首は家兼に丁重に葬られた。
牛頭城の落城により、城前の祇園川に沿って発展した小城町は衰退に向かう。
千布城の戦い(ちふじょうのたたかい)
1545年4月16日
佐賀県佐賀市金立町千布
馬場頼周ら少弐氏家臣に謀殺されたのは、水ヶ江城主の龍造寺家兼の子や孫だけではなく、龍造寺氏の惣領にあたる肥前村中城主の龍造寺胤栄の一族も含まれていた。
天文14年(1545年)4月16日、家兼は胤栄とともに、謀殺に関与し神代家臣である千布家利や福島利高が守る千布城を落とす。
千布家利や福島利高は城を脱して山内へ逃れた。
仇討ちを成し遂げた家兼は、翌天文15年(1546年)3月、水ヶ江城で死去したが、遺言により出家していた家兼の曾孫にあたる胤信(隆信)が水ヶ江城の龍造寺氏を継ぐ。
村中城の戦い(むらなかじょうのたたかい)
1551年10月25日
佐賀県佐賀市城内
八戸城の戦い(やえじょうのたたかい)
1553年8月8日
佐賀県佐賀市八戸
天文20年(1551年)、土橋栄益が龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立せんとして龍造寺隆信に反旗を翻した際、八戸宗暘は神代勝利・江上武種・小田政光・筑紫惟門らと共に栄益に与して、龍造寺隆信を肥前村中城から追放し筑後国へと追い遣った。
2年近く筑後に逼塞していた龍造寺隆信は肥前へ復帰するべく、筑後柳川城主の蒲池鑑盛の支援を得て、天文22年(1553年)7月25日に肥前に侵入すると、対立していた八戸宗腸が守る八戸城を攻撃する。
八戸城には神代勝利が後詰を送ってきたが、8月8日に降伏開城した。
その後、八戸宗腸は神代勝利と共に隆信に和睦を請うと、自らの室が隆信の姉(妹とも)であることから許され、隆信より奪った領地を返還の上で八戸城へと戻された。
ただし、宗暘は嫡子の飛車松を人質に出すよう隆信より命じられても履行しなかった。
またこの際、村中城を守備していた小田政光は隆信に恭順し、城主に擁立されていた龍造寺鑑兼は隆信の正室の兄であったため佐嘉郡に帰らせて所領を与えられ、土橋栄益は捕えられて処刑された。
隆信は居城であった村中城に復帰し肥前の奪還を果たしたのであった。
加与丁の戦い(かよちょうのたたかい)
1553年10月8日
佐賀県佐賀市諸富町大堂
龍造寺隆信が肥前村中城から追い出された後、龍造寺鑑兼が名目上の城主となっていたが、実際には少弐冬尚の家臣で小田資光の子である小田政光が実権を握っていた。
村中城に復帰した隆信は、天文22年(1553年)10月、政光の居城である蓮池城を攻撃する。
政光は城から打って出ると、肥前加与丁で龍造寺勢を迎え撃つが、敗れて蓮池城に撤退した。
その後、政光は隆信に降伏し、龍造寺氏の家臣として活躍している。
八戸城の戦い(やえじょうのたたかい)
1557年1月1日
佐賀県佐賀市八戸
八戸宗暘は天文22年(1553年)の八戸城の戦いで龍造寺隆信に降伏し、隆信の姉を室に迎えていたこともあり、所領を安堵されて八戸城に戻った。
しかし、同盟関係にある肥前三瀬城主の神代勝利が隆信に対して反旗を翻すと、宗暘もこれに呼応して豊後の大友義鎮(宗麟)に通じて隆信に抗戦しようとする。
弘治3年(1557年)正月元日、隆信に急襲された宗暘はわずか1日で八戸城を落とされ、勝利を頼って落ちのびていった。
その後、神代勝利と共に隆信に和睦を請うと、自らの室が隆信の姉であることから許され、隆信より奪った領地を返還の上で八戸城へと戻された。
ただし、宗暘は嫡子の飛車松を人質に出すよう隆信より命じられても履行しなかった。
金敷峠の戦い(かなしきとうげのたたかい)
1557年10月16日
佐賀県佐賀市大和町名尾
天文22年(1553年)の八戸城の戦いで八戸宗暘、神代勝利連合軍に勝利した龍造寺隆信であったが、八戸宗暘が隆信の姉を室に迎えていたこともあり八戸氏を許して所領と八戸城の領有を許していた。
しかし、神代勝利が再び龍造寺氏に対して反旗を翻すと、八戸氏も再び敵意を示した。
弘治3年(1557年)正月に龍造寺氏が急襲し、八戸城をわずか1日で落城させた。
八戸氏は神代氏を頼って落ちのびた。
その後、龍造寺隆信は10月に八戸宗暘とともに神代勝利を討つため、重臣の小川信安を先陣として神代氏の居城である肥前三瀬城を目指して進軍を開始する。
これに対し、籠城戦でなく神代勝利も自ら兵を率いて三瀬城を出陣し、両軍は金敷峠(名尾峠)で衝突した。
地理的な優位性から神代勢が有利に戦いを進め、劣勢に陥った龍造寺勢は信安が討ち取られるなどの大敗を喫し、撤退している。
晴気城の戦い(はるけじょうのたたかい)
1559年1月11日
佐賀県小城市小城町畑田
永禄元年(1558年)12月3日、龍造寺隆信は少弐冬尚の重臣である江上武種と神代勝利と和睦し、お互いに主家に対する二心がないことを誓った。
しかし、翌永禄2年(1559年)正月11日、隆信や西千葉氏の千葉胤連らは突然、東千葉氏で冬尚の弟である千葉胤頼の居城・肥前晴気城を急襲する。
これにより胤頼は自刃し、冬尚も江上武種を頼って勢福寺城に落ちのびるも、武種が本拠の筑後江上城に撤退したため、城を攻められ自刃することとなった。
これによって少弐氏は滅亡した。
川上の戦い(かわかみのたたかい)
1561年9月13日
佐賀県佐賀市大和町川上
永禄2年(1559年)に少弐冬尚が滅ぼされたあとも、神代勝利は龍造寺隆信に抵抗を続けていた。
龍造寺隆信は、前回の晴気城の戦いでは地形を利用され神代勝利に大敗していたため、勝利を平野部に誘き出す必要があると考え、日時と場所を定めて決戦に及ぶという挑戦状を突きつけた。
勝利はこれを受け入れ、永禄4年(1561年)9月13日に肥前川上辺で決戦することが決定した。
この川上峡合戦で、八戸宗場の加勢を得た神代軍は金敷城山を背に、4つの部隊に分かれて迎撃態勢を敷いた。
仁王門(本陣) : 神代勝利 (兵1,200人)
宮原口 : 神代長良(勝利嫡男)(兵3,000人)
宮の前大門 : 神代種良(勝利次男)(兵1,300人)
都人来原 : 神代周利(勝利三男)、 八戸宗暘(兵1,500人)
まず、宮原口を守る神代長良と龍造寺隆信の本隊が激突し、「千騎が一騎になる」と評されるほどの大乱戦となった。
また、宮の前大門では神代種良と龍造寺軍の納富信景の部隊が交戦し、攻防が続いた。
均衡が破れたのは、都人来原を守る神代周利の部隊と龍造寺軍が交戦状態に入った時で、神代周利の部隊で謀反人が現れ周利が斬殺されるという事態が起きた。
新参者が多かった周利の部隊は恐慌状態に陥って壊滅し、龍造寺軍は勢いに乗じて宮の前大門の戦線に突入し、種良の部隊をも壊滅させ、龍造寺軍は一気に優勢に立った。
川上峡合戦は龍造寺隆信の大勝に終わり、宗陽が負傷するなど神代勢に壊滅的な打撃を与え、山内を制圧した。
しかし勝利・長良親子は大村純忠を頼って肥前彼杵郡に逃れること成功した。
千布城の戦い(ちふじょうのたたかい)
1565年4月24日
佐賀県佐賀市金立町千布
勢福寺城の戦い(せいふくじじょうのたたかい)
1571年3月
佐賀県神埼市神崎町城原
この合戦に登場する武将
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馬場頼周 (ばばよりちか)
少弐家臣。肥前綾部城主。謀略を用いて政敵・龍造寺家兼の一族を討ち、家兼を失脚に追い込む。しかしのちに肥前に復帰した家兼に攻められ敗北、討たれた。
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少弐冬尚 (しょうにふゆひさ)
少弐家17代当主。資元の子。龍造寺家兼の一族を殺し、東肥前の領主の後援を得て勢力回復をはかるが、再起した家兼の曾孫・隆信の軍勢に敗れ、自害した。
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龍造寺家兼 (りゅうぞうじいえかね)
少弐家臣。田手畷合戦で大内軍を破るなど活躍するが、馬場頼周の策謀で多くの一族を殺され、筑後に逐電。のち肥前に復帰して頼周を討ち、再興を果たした。
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有馬晴純 (ありまはるずみ)
肥前の豪族。日野江城主。島原半島を中心に勢力を拡大、有馬家最大の版図を築く。また大村家に次男・純忠を入嗣させて和睦、安定した支配体制を確立した。
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龍造寺隆信 (りゅうぞうじたかのぶ)
龍造寺家19代当主。周家の子。村中・水ヶ江両家を統一して勢力を拡大し、九州5カ国2島を領した「肥前の熊」。沖田畷合戦で島津軍に大敗し、戦死した。
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小田政光 (おだまさみつ)
少弐家臣。肥前蓮池城主。龍造寺隆信の家督相続に反対した東肥前十九将の1人で、隆信と争う。隆信の肥前復帰後は隆信に仕え、江上武種討伐戦で戦死した。
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神代勝利 (くましろかつとし)
少弐家臣。肥前三瀬城主。「北山に枕し南海に足を浸す」という夢を買い取り、武運に恵まれる。龍造寺家臣・小田政光を討つなど、終生龍造寺家に対抗した。
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納富信景 (のうとみのぶかげ)
龍造寺家臣。小河信安や福地信重らとともに家老職を務め、国政に参画した。また、江上家攻めや黒土原合戦、今山合戦など各地の合戦に従軍し、功を立てた。
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神代長良 (くましろながよし)
少弐家臣。勝利の嫡男。父の隠居により家督を継ぐ。父の死後は龍造寺家と和睦し、家臣となった。のちに小川信俊(鍋島直茂の弟)の子・家良を養子とした。
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江上武種 (えがみたけたね)
少弐家臣。肥前勢福寺城主。龍造寺隆信の家督相続に反対した東肥前十九将の1人。龍造寺家臣・小田政光を討つなど活躍したが、のちに龍造寺家臣となった。