毛利元就の周防・長門平定
毛利元就の周防・長門平定
1554年4月
陶晴賢と小早川隆景
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三本松城の戦い(さんぽんまつじょうのたたかい)
1554年4月17日 ~ 9月2日
島根県鹿足郡津和野町
折敷畑の戦い(おしきばたのたたかい)
1554年6月5日
広島県廿日市市宮内東谷一帯
矢野城の戦い(やのじょうのたたかい)
1555年4月11日
広島県広島市安芸区矢野町
天文24年(1555年)1月、野間隆実は大内義長・陶晴賢方の白井房胤・賢胤父子と共に仁保島城を攻撃し、毛利氏との敵対を明らかにした。
隆実は、大内義隆の偏諱を受けており、安芸国内でも有数の水軍を保持していた。
毛利元就はまさか隆実が毛利氏を裏切るとは思わず、これに激怒して野間隆実の居城である矢野城攻めを決意した。
4月、毛利軍の南下を知った晴賢は、山口より羽仁源七や小幡某に兵100余を預け、矢野城に入城させて防備を強化した。
毛利軍は出城のひとつを落とした後、矢野城を包囲し攻城戦を開始。
毛利軍の猛攻の前に城は落城寸前となった。
ここで隆実の舅・熊谷信直を通じて降伏し、矢野城は開城した。
野間隆実は熊谷信直の所領である安芸三入庄に移送されたのち謀殺され、その直後に家臣や城兵も矢野城下の真教寺に幽閉されて殺害された。
元就は、晴賢との対決の直前という重要な時期であり、また同様の裏切りを起させないためにもこの処置に及んだとされる。
宮尾城の戦い(みやおじょうのたたかい)
1555年7月7日
広島県廿日市市宮島町浜之町
仁保城の戦い(にほじょうのたたかい)
1555年7月10日
広島県広島市南区黄金山町
厳島の戦い(いつくしまのたたかい)
1555年10月1日
広島県廿日市市宮島町一帯
展望から望む宮島風景
須々万沼城の戦い(すすまぬまじょうのたたかい)
1557年2月28日 ~ 3月3日
山口県周南市須々万本郷
若山城の戦い(わかやまじょうのたたかい)
1557年3月8日
山口県周南市福川
且山城の戦い(かつやまじょうのたたかい)
1557年4月2日
山口県下関市田倉
この合戦に登場する武将
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大内義長 (おおうちよしなが)
大内家32代当主。大友義鑑の子。大内義隆の死後、陶晴賢に擁されて大内家を継いだ。厳島合戦で晴賢が戦死したあとは毛利軍の侵攻を受け続け、自害した。
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陶晴賢 (すえはるかた)
大内家臣。興房の子。「西国無双の侍大将」と評された。主君・義隆を自害させ大友晴英を当主に迎えて主家を傀儡化した。厳島合戦で毛利元就に敗れ、自害。
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吉見正頼 (よしみまさより)
大内家臣。主君・義隆の姉を娶る。義隆の敵・陶晴賢打倒を目指して挙兵し、毛利元就と結んで晴賢と戦う。晴賢が厳島合戦で敗死したあとは毛利家に属した。
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毛利元就 (もうりもとなり)
安芸の戦国大名。権謀術数を駆使して勢力を拡大、中国10カ国の主となった稀代の謀将。厳島合戦では数々の謀略で陶晴賢を翻弄、5倍の兵力の敵を破った。
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熊谷信直 (くまがいのぶなお)
安芸武田家臣。のちに主家と対立し、毛利家に属す。娘が元就の次男・吉川元春に嫁いでからは一門衆として重用され、吉川軍の先鋒を務めて各地で奮戦した。
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己斐直之 (こいなおゆき)
安芸武田家臣。己斐城主。豊後守と称した。祖は厳島神領衆という。のちに香川光景らとともに主家を離反し、毛利家に属した。厳島合戦では宮尾城を守った。
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香川光景 (かがわみつかげ)
安芸武田家臣。安芸八木城主。のちに己斐直之らとともに主家を離反し、毛利家に属した。厳島合戦の際は、真言寺院の東林坊とともに仁保城の城番を務めた。
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小早川隆景 (こばやかわたかかげ)
毛利元就の三男。安芸の豪族・小早川家を継ぎ、山陽地方の攻略にあたる。本能寺の変後は毛利家の存続をはかって豊臣秀吉に接近し、五大老の1人となった。
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毛利隆元 (もうりたかもと)
安芸の戦国大名。元就の嫡男。大内家の人質となり、大内義隆から加冠され元服した。父の後見を受けて中国経略に従事するが、出雲遠征に向かう途中に急死。
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福原貞俊 (ふくはらさだとし)
毛利家臣。筆頭家老を務めた。小早川隆景を補佐して山陽方面の経略を行う。主君・元就の死後、四人衆の1人となり当主・輝元を補佐して主家の国政に参画。