上杉謙信の越中平定
上杉謙信の越中平定
1560年3月
上杉謙信と椎名康胤
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富山城の戦い(とやまじょうのたたかい)
1560年3月30日
富山県富山市星井町
富山市役所から見た富山城
永禄2年(1559年)夏、神保長職が再び椎名氏への攻勢を強めたため、椎名康胤は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)に援軍を要請し、永禄3年(1560年)3月、上杉軍の支援もあり富山城・増山城を陥落させ、神保長職を撃退した。
富山城を脱出した長職は砺波の増山城に逃れ抵抗するも、景虎の追撃を受けると夜陰に乗じて国外に逃亡を図る。
危機を脱し椎名氏による支配を安定させた椎名康胤は、同年の景虎の関東出陣に従軍している。
松倉城の戦い(まつくらじょうのたたかい)
1569年10月6日
富山県魚津市鹿熊
上杉輝虎(謙信)の関東出陣中の居・城春日山城の留守を任せるなど椎名康胤は信頼を寄せられていたが、次第に上杉氏からの自立を図るようになり、甲斐国の武田信玄の調略に応じた。
武田信玄や上杉氏に反旗を翻した椎名康胤を討つため、永禄11年(1568年)3月、上杉輝虎は越中に出陣して守山城を攻めたが、このときは本庄繁長の謀反の急報が届き越後に帰陣する。
翌永禄12年(1569年)8月20日、再び越中に出陣した輝虎が松倉城を攻める。
越中三大山城にも数えられる名城である松倉城は天然の要害であり、容易には落ちなかったが、10月6日に松倉城を落とし敗れた康胤は落ちのびた。
富山城の戦い(とやまじょうのたたかい)
1571年3月15日 ~ 18日
富山県富山市星井町
富山城
永禄12年(1569年)の松倉城の戦いに敗れた椎名康胤は、一向一揆とともに上杉謙信に対する抵抗を続けていた。
元亀2年(1571年)3月、謙信は2万8千の大軍で越中に侵攻し、数年に渡り頑強に抵抗してきた松倉城を落城させ、その後康胤の属城となっていた富山城を攻囲する。
このとき康胤は後詰を富山城に送ったが、謙信配下の越中魚津城将である河田長親に阻まれ、城を守っていた康胤の家臣の飯坂隼人佐らがことごとく討死して富山城は落城してしまう。
上杉軍は新庄城・守山城等、多数の城を攻め落とし、越中の東部から中部、さらに西部にまで破竹の勢いで進撃し、椎名康胤や一揆勢を圧倒した。
こののち謙信は富山城を河田長親に守らせた。
五福山の戦い(ごふくやまのたたかい)
1572年6月15日
富山県富山市呉羽町
上杉謙信が越中征伐の真っ只中の元亀3年(1572年)6月、謙信に逐われた椎名康胤と神保長職の子・長城は、瑞泉寺の門徒ら一向一揆の加勢を得て、謙信の属城である越中日宮城に迫った。
日宮城将の神保覚広・小島職鎮は、上杉氏の越中支配の拠点であった新庄城の鰺坂長実に救援を要請する。
これを受けた鰺坂長実は、魚津城の河田長親と協議し山本寺定長とともに援軍を送り、6月15日神通川を越え日宮城から10キロほど東に位置する婦負郡の五福山で康胤・長城の一揆勢を迎え撃つが、衆寡敵せず上杉勢が敗れ、新庄城に敗走した。
新庄城へ退却する途中の神通川渡し場において一揆勢の猛追を受け、大敗を喫した。
日宮城の戦い(ひのみやじょうのたたかい)
1572年6月15日
富山県射水市下条
元亀3年(1572年)、武田信玄は上洛(西上作戦)を本格化させるためには、上杉謙信に背後を突かれない必要があるため、加賀国・越中国の一向一揆を主力に神保長城、椎名康胤らに挙兵を要請しています。
そして同年5月24日から一揆勢は日宮城に対して攻撃を開始します。
この頃、謙信は越相同盟を破棄して甲相同盟を結んだ北条氏政のために関東に出兵していたため、上杉軍は越中に在国している兵力だけで一向一揆と戦うことを余儀なくされていました。
日宮城の守将であった神保覚広は越中国新庄城主・鰺坂長実に援軍を要請し、上杉方は鰺坂長実や山本寺定長等を援軍として派遣するも、援軍は間に合わず呉服山で一揆勢の迎撃に遭い退却。
そこを追撃されて、惨敗した。
援軍が期待出来なくなった神保覚広、小島職鎮、安藤職張、水越職勝ら守将らは同年6月15日に開城。
一揆勢と和議を結んで能登国石動山天平寺へと落ち延びた。
これによって勢い付いた一揆勢はそのまま越中国白鳥城を攻め、越中国富山城(翌年に謙信によって再度攻略されている)をも落としている。
尻垂坂の戦い(しりたれざかのたたかい)
1572年8月
富山県富山市西新庄
この合戦に登場する武将
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椎名康胤 (しいなやすたね)
越中の豪族。松倉城主。上杉謙信の従兄弟・長尾景直を養子とし、謙信と結ぶ。しかし、のちに武田家と結んだため、謙信に攻められて敗れ、戦死したという。
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上杉謙信 (うえすぎけんしん)
越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。
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神保長職 (じんぼうながもと)
越中の豪族。富山城主。神保家を越中最大の勢力に築き上げるが、上杉謙信に敗れ、降伏した。のちに意見の対立により家中が分裂し、再び神保家は衰退した。
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河田長親 (かわだながちか)
上杉家臣。近江の出身。上杉謙信が上洛した際に召し出され、家臣となる。上杉家の北陸攻略に大きく貢献した。のちに松倉城主となり、織田信長軍と戦った。
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神保長城 (じんぼうながなり)
越中の豪族。父・長職が兄・長住を追放したあと家督を継ぐ。父の死後は家臣・小島職鎮に実権を握られた。長住が越中に戻ると、神保家の家督を返還した。
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山本寺定長 (さんぽんじさだなが)
越後上杉氏家臣。上杉氏一族として家中に重きをなす。謙信の養子・景虎の後見役となった為、謙信死後の家督争いの際は景虎を推して戦うが敗れ、出奔した。
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神保覚広 (じんぼうただひろ)
神保家臣。神保家の一族。主家の内紛により上杉家との関係が悪化した際、関係修復に尽力した。のちに居城・火宮城を一向一揆に落とされ、石動山に逃れた。
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小島職鎮 (こじまもとしげ)
神保家臣。日宮城主。主君・長職とともに上杉家に属した。長職の死後は主家の実権を握る。のち越中に帰還した神保長住を幽閉し、主家滅亡の原因を作った。