長宗我部元親の土佐平定
長宗我部元親の土佐平定
1560年5月
長鹿部元親と一条兼定
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長浜表の戦い(ながはまおもてのたたかい)
1560年5月27日 ~ 27日
高知県高知市長浜周辺
弘治元年(1555)頃から土佐中央部の支配をめぐって土佐七雄の長宗我部国親と本山茂辰は争うようになっていた。
国親は本山領への侵攻を画策するも、本山方の前線にあった長浜城の守りが堅くなかなか攻めきれずにいた。
しかし長浜城の城門が経年劣化により建て替えの必要が出てきて、本山茂辰は築城技術に長けていた福留右馬丞(親政)を雇って修繕を命じた。
実は福留右馬丞はかつて長宗我部国親に仕えており、この報を聞いた国親は、福留右馬丞に帰参を許し所領を与える約束で内応させた。
そして永禄3年(1560年)5月27日、国親は大窪美作守が守る土佐長浜城を夜襲した。
福留右馬丞の手引きで城門を突破すると、城兵は無抵抗で城を明け渡した。
本山茂辰は長浜城が攻撃された知らせを聞き、長浜城を救援するため居城の本山城から出陣する。
翌28日朝、長宗我部軍は長浜城から南の慶雲寺に出陣し、一方の本山軍はその西の日出野に陣を構え、午前10時頃から両軍は長浜表で激突する(戸ノ本の戦い)。
当初は数で勝る本山軍が優勢だったが、乱戦の末長宗我部軍が押し返し、本山軍は浦戸城へ退く。
長宗我部軍は追撃し浦戸城を包囲するも、国親が急病のため数日後に退却した。
長宗我部国親の嫡男・元親は、この戸ノ本の戦いが22歳での遅い初陣であった。
元親は幼少の頃、長身だが色白で大人しかったため「姫若子」揶揄されるほど虚弱だった。
初陣前に家臣の秦泉寺泰惟(豊後)から槍の使い方と大将の行動の指導を受ける有様であった。
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しかしいざ戦闘が開始されると、元親は50騎を率いて70余の首を上げ、自らも騎馬武者を2人討ち取るという戦いぶりを見せた。
さらに元親は勝戦の余勢を駆り、国親らの制止を振り切って本山方の支城・潮江城を無人と踏んで突入し、城を奪取した。
このめまぐるしい活躍により、元親はそれ以後「鬼若子」「出来人」と畏怖されるようになったという。
元親の弟の親貞もこの戦いで初陣を飾っている。
この戦いに敗れた本山茂辰は、こののち長浜城と浦戸城を国親によって攻略され衰退の途を辿った。
急病を発した国親は、岡豊城での治療も功を奏せず間もなく死去する。
国親は元親に「本山を駆逐することが一番の供養になると心得よ」と遺言し、無念を滲ませたと言われる。
潮江城の戦い(うしおえじょうのたたかい)
1560年6月25日
高知県高知市筆山町
神森城の戦い(こうのもりじょうのたたかい)
1560年9月23日
高知県高知市福井町
朝倉城の戦い(あさくらじょうのたたかい)
1562年9月16日 ~ 18日
高知県高知市朝倉・鴨部
吉良峰城の戦い(きらみねじょうのたたかい)
1563年3月
高知県高知市春野町弘岡上
瓜生野城の戦い(うりうのじょうのたたかい)
1568年
高知県長岡郡本山町瓜生野
長宗我部元親による攻勢を受け続けた本山茂辰は、永禄7年(1564年)、ついに本城であった本山城も捨て本山氏最期の拠点である瓜生野城に退く。
元親は瓜生野城を攻撃したものの、城を落とすことはできなかった。
貞茂は元親に降伏すると、元親に気に入られて偏諱を受け親茂と改める。
さらに一門衆に加えられ、元親の嫡男・長宗我部信親の家老として仕えた。
その後の本山親茂は、長宗我部氏の伊予進出で活躍し、戸次川の戦いで討死している。
安芸城の戦い(あきじょうのたたかい)
1569年7月 ~ 8月11日
高知県安芸市土居
蓮池城の戦い(はすいけじょうのたたかい)
1569年11月6日
高知県土佐市蓮池
姫野々城の戦い(ひめののじょうのたたかい)
1571年
高知県高岡郡津野町姫野々
渡川の戦い(わたりがわのたたかい)
1575年7月
高知県四万十市市具同一帯
この合戦に登場する武将
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長宗我部国親 (ちょうそかべくにちか)
土佐の戦国大名。岡豊城主。父・兼序の死後、一条房家を頼り、房家の援助により居城に復帰。婚姻外交と積極的な富国策で長宗我部家の再興に生涯を捧げた。
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福留親政 (ふくどめちかまさ)
長宗我部家臣。安芸家との戦いで奮戦し「福留の荒切り」の逸話を残す。主君・元親から受けた感状は21枚という家中屈指の勇将。南伊予攻略戦で戦死した。
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長宗我部元親 (ちょうそかべもとちか)
土佐の戦国大名。岡豊城主。国親の子。剽悍の一領具足衆を率い、瞬く間に周辺諸国を制圧。10数年で四国統一を成し遂げ「土佐の出来人」の異名をとった。
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秦泉寺泰惟 (じんぜんじやすこれ)
長宗我部家臣。秦泉寺城主。長浜戸合戦で初陣を迎えた長宗我部元親に、槍の使い方を教示した。のちに農民と争いを起こして元親の怒りを買い、討伐された。
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本山茂辰 (もとやましげとき)
土佐の豪族。茂宗の子。長宗我部国親の娘を娶る。のちに敵対し、長浜戸合戦で長宗我部軍に敗れて平野部の拠点・土佐朝倉城を失い、凋落の一途をたどった。
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神森出雲 (こうのもりいずも)
本山家臣。神森城主。長宗我部元親に攻められると籠城するが、水の手を攻められて落城、自害した。白米で馬を洗ってみせ、水の手攻めに対抗したという。
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本山親茂 (もとやまちかしげ)
土佐の豪族。茂辰の子。長宗我部元親との戦いで初陣、奮戦するが敗退する。間もなく家督を継ぐが、長宗我部軍の猛攻に遭い降伏し、長宗我部家臣となった。
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香宗我部親泰 (こうそかべちかやす)
長宗我部国親の三男。阿波中富川合戦で十河存保軍を破るなど、兄・元親の片腕として四国統一に貢献した。織田家に使者として赴くなど、外交でも活躍した。
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安芸国虎 (あきくにとら)
土佐の豪族。安芸城主。長宗我部元親の居城・土佐岡豊城への招請を断り、元親と戦う。しかし元親の謀略により家臣団が内部崩壊を起こして敗北、自害した。
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吉良親貞 (きらちかさだ)
長宗我部国親の次男。剛毅かつ知略に富んだ武将で、兄・元親の片腕として土佐統一に貢献した。土佐一条家滅亡後は土佐中村城代となるが間もなく病死した。
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一条兼定 (いちじょうかねさだ)
土佐一条家4代当主。房基の子。日夜酒色にふける生活を送ったため、家臣たちによって追放された。のちに大友宗麟の後援で旧領回復を企てるが、失敗した。
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津野定勝 (つのさだかつ)
一条家臣。土佐七雄の一・津野家当主。基高の子。鳥坂峠合戦に従軍。長宗我部元親が一条家からの離反を要求するも拒絶。長宗我部派の家臣に追放された。