佐竹義昭と小田氏治
佐竹義昭と小田氏治
1563年2月
佐竹義昭と小田氏治
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三村の戦い(みむらのたたかい)
1563年2月29日
茨城県石岡市三村
永禄6年(1563年)2月29日、佐竹義昭と対立する小田氏治は、義昭が上杉輝虎(謙信)の関東出陣に参加すべく常陸を離れた留守をついて、義昭の縁戚にあたる常陸府中城の大掾貞国を攻撃する。
小田氏治は常陸三村での戦いで貞国を破ると、下野の那須資胤や結城晴朝とも相応援することを約し、佐竹義昭に対抗した。
これに対し義昭は、大掾氏の家督に実弟の昌幹(小野崎義政)を送り込み、佐竹氏の勢力を常陸中部にまで広げている。
小田城の戦い(おだじょうのたたかい)
1564年1月29日
茨城県つくば市小田
小田城の戦い(おだじょうのたたかい)
1565年12月
茨城県つくば市小田
小田城の戦い(おだじょうのたたかい)
1566年2月16日
茨城県つくば市小田
手這坂の戦い(てばいざかのたたかい)
1569年11月23日
茨城県石岡市小幡
この合戦に登場する武将
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小田氏治 (おだうじはる)
小田家15代当主。政治の子。北条家と結んで佐竹家の南進阻止を試みるが連戦連敗、居城を奪われて降伏した。以後も失地を回復できず、結城秀康に仕えた。
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大掾貞国 (だいじょうさだくに)
常陸の豪族。府中城主。大掾慶幹の死後佐竹義昭の弟が家督を継ぎ、昌幹と名乗ったが、大掾家中の反対にあったため実家に戻り、貞国が家督を継いだという。
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上杉謙信 (うえすぎけんしん)
越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。
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佐竹義昭 (さたけよしあき)
佐竹家17代当主。義篤の嫡男。南陸奥の白河結城家を降し、常陸の覇権を巡って小田家と争った。関東管領・上杉憲政が庇護を求めた際は、これを拒否した。
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佐竹義重 (さたけよししげ)
佐竹家18代当主。義昭の嫡男。父の遺志を継ぎ、常陸の統一に成功する。北条家と伊達家を敵に回し、陣頭で自ら采配を振るう姿は「鬼義重」と恐れられた。
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宇都宮広綱 (うつのみやひろつな)
宇都宮家21代当主。尚綱の嫡男。佐竹義昭の娘を娶り同盟を結ぶ。また、芳賀高定とともに、北条家と結ぶ領内の反宇都宮勢力と戦った。病弱だったという。
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佐竹義廉 (さたけよしかど)
佐竹家臣。北家・義信の次男。兄・義住の戦死により家督を継ぐ。若年の宗家・義昭に仕え、東家・義堅や南家・義里らと交代で佐竹家の家政を執行した。
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菅谷政貞 (すげのやまささだ)
小田家臣。土浦城主。勝貞の子。佐竹家に奪われた小田城を奪還し、大掾家・宇都宮家などと戦うなど活躍したが、のちに主君・氏治とともに佐竹家に属した。
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佐野昌綱 (さのまさつな)
佐野家15代当主。唐沢山城主。豊綱の嫡男。古河公方・足利家に従って河越合戦に参陣するが敗北。以後は北条家に従い、上杉謙信の攻撃をたびたび受けた。
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太田資正 (おおたすけまさ)
扇谷上杉家臣。岩付城主。資頼の次男。主家滅亡後は上杉家や佐竹家に属し、生涯を通じて北条家と戦った。豊臣秀吉の小田原征伐では、秀吉の本陣を訪れた。